「三毛別事件」史上最恐のヒグマを討ち取った「伝説のハンター」がいた!「酒癖が悪いが…」「カネへの執着はない」…その「意外な素顔」
酒癖の悪さで疎まれる
小説『羆嵐』の結びでは、山本兵吉こと山岡銀四郎が、太平洋戦争末期の頃に脳溢血で倒れ半身不随となり、弟夫婦に預けられていた息子が戻って妻帯したとある。しかし原戸籍によれば、兵吉は昭和十六年八月、つまり開戦前に「苫前郡初山別村字初山別原野七線番外地」に転出している。明治三十二年の転入から数えれば、四十二年間、鬼鹿村に居住したことになるが、不思議なことに兵吉についての地元古老の記憶や回顧録はまったく残っていない。 ニシン漁が主産業であったためにマタギの話題は登りにくかったのか、瀧川氏の言うように「よほどの変わり者」だったためか、あるいは市街地から離れた「オンネの沢」に引き移ったためかもしれない。 いずれにしても、彼の酒癖の悪さが、良くも悪くも彼の人生に影響を与えたように筆者には思える。「ヤン衆」に疎まれ、その結果、猟師の道を選び、また同じ理由で、鬼鹿市街地に住めなくなって「オンネの沢」に転居したのではないだろうか。 初山別に転住したことについては、兵吉の次女ふじが初山別に嫁いでいたこと、二男徳太郎が一時期、初山別の夫婦に養子に出されていたことなどから、土地勘があったものと思われる。初山別では、長男藤作と同居した。藤作は海岸から数キロも離れた「原野七線番外地」、後の千代田地区で農業を営んでいたといい、ここでもあえて海から離れた場所に住居を定めている。ほどなく徳太郎も移り住んで「山本鉄工所」を開業した。 二人の息子と数多くの孫に囲まれた兵吉の晩年は、賑やかで平穏なものだったろう。昭和二十五年十一月十一日、兵吉は藤作ら親族に看取られて永眠した。享年九十二歳。江戸、明治、大正、昭和と近代日本の激動期を駆け抜けた生涯であった。 後編記事『ヒグマに襲われた数名の死体が…「もう少し早く知らせてもらっていたら」「三毛別事件」凶悪熊を討ち取った「伝説のハンター」の悔恨』へ続く。
中山 茂大(ノンフィクション作家)