「三毛別事件」史上最恐のヒグマを討ち取った「伝説のハンター」がいた!「酒癖が悪いが…」「カネへの執着はない」…その「意外な素顔」
金に固執しないヒグマ猟師
この事件は、「和島屋定吉羆騒動」として地元で長く語り継がれ、現場近くの竹園寺に今も碑が建っている。別の資料では、「和島屋は急いで子供を連れ、市街地の住吉(住吉旅館のことか)の家に転がり込み救いを求めた」(『小平百話 記憶の中の物語』鈴木トミエ 平成十二年)とあり、ここでも住吉が出てくる。 それはともかく上記記事から得られる事実がいくつかある。ひとつは、当時の鬼鹿村が、ニシン漁期以外は寒村にすぎなかったこと。そして「田代沢奥」、つまり「オンネの沢」で人喰い熊事件が起きたことである。 前出の卯之吉についての新聞記事は、発行日が「明治二十一年十二月十四日」なので、山本家はすでに鬼鹿村に越年、つまり定住していた。従って「和島屋定吉羆騒動」を間近で目撃した可能性が高い。また田代集落では、明治二十四年と三十四年にも人喰い熊事件が起きている。そのような山奥の、人喰い熊が出没するような集落に、わざわざ移り住んだのは、兵吉が猟師として身を立てることを決意していたからに違いない。 「あの当時「漁師」ではなく「猟師」をやるのは「金はいらない」と言っているようなもの。よほどの変わり者だったのではないか」(前出、瀧川氏) 樺太という辺境を目指した兵吉は、ここでも儲かる「ヤン衆」を尻目に山を目指した。みなとは違う道をあえて進む「反骨精神」のようなものを感じずにはいられない。三毛別事件後も、兵吉は「鬼鹿村字オンネ沢番外地」に居住していたと思われる。上述の通り、「オンネの沢」が人喰い熊事件が続発する危険地帯であることは別稿で述べたが、ヒグマのエサ場となる条件を兼ね備えた地域でもあり、熊撃ち猟師にとっては格好の狩り場であった。また後に述べるように、六線沢集落にも、山を越えて半日でたどり着ける距離であった。 なおネット情報に、「三毛別事件」の後、兵吉が六線沢集落に移住したとの記述があるが、戸籍上では確認できなかった。