なぜ京都は「平野が少ないのに繁栄した」のか? 地理的条件と古代の勢力図
大和王権の勢力を反映する最大のモニュメント・前方後円墳。京都府北部から兵庫県東北部にあたる丹後地方には多くの豪族たちが古墳を建設したが、なぜ平野の少ない丹後が栄えたのだろうか。また、九州や関東など地方の有力豪族たちはどのように権力を失ったのだろうか。 ■中央に近い豪族と地方豪族に力の差があった!? 大和王権の勢力を反映する最大のモニュメントといえるのが前方後円墳だが、5世紀初めくらいまでは必ずしも大和や河内などの大王墓が突出して大きかったわけではない。岡山県には全国第4位の大きさの全長360mの造山(つくりやま)古墳、第9位の全長286mの作山(つくりやま)古墳、次いで全長192mの両宮山(りょうぐうざん)古墳といった前方後円墳がある。 前2者に関しては、大きさ、墳形、ともに5世紀の大王の古墳に引けを取らない。このことからわかるように、大王にとって吉備(きび)氏は重要な政権パートナーであった。5世紀後半の雄略(ゆうりゃく)天皇に后妃(こうひ)を入れていることからも明らかであろう。 吉備氏がそこまで繁栄した背景には、これまで吉備平野の農業生産力や中国山地での製鉄、瀬戸内海での製塩などがあったと考えられてきたが、考古学者の新納泉(にいろいずみ)氏はそれらの要素よりも、吉備が九州と畿内を結ぶ物資流通の結節点であったことを重視している。そうした役割は邪馬台国の時代から始まっており、弥生末期には楯築墳丘(たてつきふんきゅう)墓のような大型の墳丘墓が築かれている。 丹後(たんご)地方(現在の京都府北部から兵庫県東北部)にあたる一帯にも大きな前方後円墳が継続して営まれた時期があった。決して広い平野があるわけではない丹後半島に、古墳時代前期、丹後3大古墳とよばれる大古墳が築かれた。この地に4世紀後半ころまで有力な豪族が勢力を保っていたことは疑いない。 この丹後3大古墳とは造られた順に、蛭子山(えびすやま)古墳(全長145m)、網野銚子山(あみのちょうしやま)古墳(全長198m)、神明山(しんめいさん)古墳(全長190m)である。これに遡る湧田山(わくたやま)古墳(全長100m)、白米山(しらげやま)古墳(全長90m)、その後に造られた黒部銚子山(くろべちょうしやま)古墳(全長105m)を含めると、6代100年近くにわたって継続した。 北陸から若狭(わかさ)、伯耆(ほうき)、出雲(いずも)と日本海沿岸地域の中でも最大の勢力を誇ったのがこの丹後地方であった。考古学者の広瀬和雄(ひろせかずお)氏はその背景に交易があるという。 「圧倒的に平野面積の乏しい」土地にもかかわらず丹後地域が繁栄を遂げたのは、「日本海に面する」「地理的条件を活かし、具体的には南部朝鮮からの鉄素材を入手し、畿内などの諸地域へ供給していた」ことがあったと考えた。その表象として「大型・中型前方後円墳が、日本海から大和への交通の要衝に造営」されたとしたのである。 このほか九州一円に勢力を誇った筑紫(つくし)君や、北関東一帯に多くの前方後円墳を残した下毛野(しもつけの)君、濃尾平野に本拠地をもち、東海地方最大の前方後円墳である断夫山(だんぷさん)古墳を築いた尾張(おわり)臣など、有力地方豪族は枚挙にいとまがない。 彼らは5世紀中ごろまでは中央の豪族たちと遜色なく、大和王権の中枢で大王を扶翼(ふよく)する立場にあった。しかし、雄略朝に大和盆地西南部の葛城氏が反乱を起こして鎮圧され、以後衰退していったのとともに、これに次ぐ勢力を誇った吉備氏もまた反乱に失敗し、勢力を急速に失った。 また九州中部・北部に勢力を保ち、5世紀半ば以降は有明海沿岸一帯に首長連合を形成して、朝鮮半島と独自の外交を展開していた磐井(いわい)君が、継体朝に中央から派遣された物部氏の軍と戦い敗れた(磐井の乱)。雄略朝から継体(けいたい)朝、欽明(きんめい)朝を通じて地方の有力豪族が、次々と中央からの武力制圧に敗れていったのである。 雄略朝には大王一人に権力が集中する専制が志向されていたようにみえるのに対し、継体・欽明朝以降は大王と中央(畿内)豪族の合議制が権力主体となっているようにみえる。大和や河内に本拠を有する大伴氏・物部氏・蘇我氏・阿倍氏・和邇(わに)氏などによる合議制が形成されていく一方で、地方豪族は権力中枢から排除されていったのである。 監修・文/水谷千秋 歴史人2023年10月号『「古代史」研究最前線!』より
歴史人編集部