親は悩む…子どもに「不審者の危険性」に伝える前に、見落としてしまいがちな「もっとも大切なこと」
人気のいない夜の京都の町で
20代後半の頃のこと、わたしは東京に住んでいて、なんの用事かは忘れたが京都の実家に帰っていた。これまたなぜだったかは思いだせないが、スーツ姿で京都市内を急いで歩いていた。 近道をしようと京都御所のなかを横切っていると、ランニング姿の男性から声をかけられた。同じくらいか、少し歳上に見えるその男性は、「トレーニングを手伝っていただけませんか?」という。 急いではいたが断るのも悪い気がして、「ちょっとだけなら」とわたしは応じた。 導かれるままに、近くにあった茂みの裏に連れていかれた。かなり奥のほうまで入ったところで、男性は地面に仰向けに横たわった。まわりにはひと気がない。 「お腹に乗ってもらえませんか」 と男性は言う。腹筋のトレーニングかな? と思ったわたしは、靴を脱いでランニングシャツの腹の部分に足を乗せようとした。 「靴のままでお願いします」 と手で制されて、わたしは革靴のまま男性の腹を踏み、上に乗った。 男性は目をつぶって、ふぅー、と息をもらしてから、「足踏みをしてください」と言う。仕方なく足踏みをしはじめると「ハァ……ハァ……」と男性は顔を赤くしてあえぎはじめたかと思うと、わたしの足首をがっと掴んだ。 「ヘンタイや!!」 やっと気がついたわたしは、声をあげながら腹から飛び降りて、茂みからでると御所のなかを駆け抜けた。 人がたくさんいるところに戻ってからも、後をつけられていないかと何度も振り返った。恐怖の体験だった。 こうして思い返してみると、最初に声をかけられたとき、ひと気のないところへ連れていかれたとき、腹に乗ってほしいと頼まれたときなど、おかしいと気づけるタイミングはいくらでもあった。でも気づけなかった。 実際にその場にいると、相手のペースに飲まれて、おかしいと思える余裕がなくなってしまうのだ。よく考えてみると、「不審者」の危険性を知らなければならないのは、子どもたちよりまずわたしなのかもしれない。 …つづく仙田さんの連載<シングルファザーが離婚して12年後に知った、別れた妻が「自殺」という言葉に泣いた理由>はこちらからどうぞ。
仙田 学(作家)