「女将になる道を避けてきた」売り上げ昨対比70%割れ 京都料亭・和久傳を全国ブランドにした“逃げ腰”女将の「チームづくり」
桑村「最初はお菓子を笹に巻くのも自分でやっていたんです。その場で召し上がっていただく料理屋とは違い、物販では、どうやったらお客さまにおいしくお届けできるのかを考えます。おもてなしは苦手だけど、販売までの仕組みづくりは私には合っていたし、好きでした」 紫野和久傳では、いまでは記念日などに贈ることができるお酒、お鍋なども含めて約300種類を扱っています。2010年からはオンラインショップも始め、コロナ下では、それ以前に比べて売り上げが300%になりました。 室町和久傳を切り盛りして10年近く経ったとき、母親の綾さんから「(別の店の)開店準備に行ってくれへん?」と声をかけられます。京都駅にある伊勢丹に3店舗目を出すことになったのです。望まない“女将への道”からそろそろ身を引こうかと考えていた桑村さんでしたが、引き受けることにしました。
桑村「商品は良いのに販路がないことを悔しく思っていたんです。なので、それだけやって辞めよう、と」 ところが、順調に店は立ち上がったのに利益が上がりません。調べてみると、800円で売っていたちりめんじゃこの原価に600円かかっていることがわかりました。営業もできていなかったため、こうした課題をひとつずつ改善していきました。そうこうするうちに、2003年には紫野和久傳の2店舗目を出すため、東京へ移ることになります。 桑村「やればやるほど右肩上がりで良くなっていくんです。回り始めると売り上げにつながっていくのが面白くて」 経験を積むために販売員もしました。ひと通りさまざまな経験をしたため、「誰がどんな仕事をしているか」「問題が起きたときにどうさかのぼればいいか」が見えやすくなり、代表になったいまも生きているそうです。
赤面症であいさつもできない「女将」
そして2007年、辞令が出ます。母を継いで本店である高台寺和久傳の女将に、ということでした。絶対に避けたいと思っていた女将という仕事。しかも本店の女将になったら「辞めた」と放り出すわけにはいきません。渋々引き継いでみると、室町和久傳を開いたとき以上の借金があり、さらに赤面症のトラウマにも苦しむことになりました。 桑村「『ありがとうございます』も、『いらっしゃいませ』も言えないぐらいでした。お客さまも『この暗いアルバイトの人、誰やろう』というような感じです」 東京では紫野和久傳の伊勢丹新宿店や松屋銀座店など4店舗を束ねていたという自負もあり、「逃げたら負け」と踏ん張る気持ちはありましたが、いかんせん挨拶さえしっかりできません。古くからのお客さんの中には「お嬢さんが頑張っているから」と来てくれる人もいましたが、逆に「お母さんじゃなかったら行かへん」という人もいました。