「女将になる道を避けてきた」売り上げ昨対比70%割れ 京都料亭・和久傳を全国ブランドにした“逃げ腰”女将の「チームづくり」
和久傳の創業は1870年(明治3年)。丹後地方は江戸時代からちりめん産業で栄えていて、和久傳は木造3階建ての旅館で商談客などをもてなしていたそうです。ただ、桑村さんが子どものころにはちりめん産業は斜陽になっていました。周囲では夜逃げしたり命を絶ったり、といった話も聞きました。家業の経営も苦しくなっていきます。 桑村「女将である母はとにかく一生懸命やっていました。ほかのところとは違うものをと考えて、丹後で水揚げされるカニを囲炉裏で焼いたらどうだろう、と。お鍋にしてしまうとスープが出てしまうので焼くことにしたのですが、それがものすごくウケました」
それが、いまも店の名物となっている「間人(たいざ)蟹の焼き蟹」です。京丹後の地でとれた素朴でおいしい食材を、京都から迎えた料理人が洗練された料理にして提供する──。和久傳がいまも大切にする「野趣と繊細」が、遠方からのお客さんも引きつけました。 それでも時代の波にはあらがえず、故郷を離れて京都市内の高台寺の近くに料亭を出すことになったのが1982年のこと。店舗にしたのは、数寄屋建築の名工・中村外二が建て、尾上流家元の住まいだった建物。名だたる料亭やお茶屋が多くある京都で、再起をかけた挑戦でした。
このとき桑村さんは18歳の大学生。それから40年あまり経ったいま、母の後を継いで女将になった桑村さんが切り盛りする和久傳は、京都市内に3店舗を構え、「料亭」の枠にとどまらない全国区のブランドに成長しました。
評判の和菓子が切りひらいた「次の一歩」
桑村さんが家業に入ったのは20代半ば、高台寺に続く2店舗目の「室町和久傳」立ち上げのタイミングでした。子どものころは赤面症だったほど人前に出るのが苦手だったという桑村さんにとって、料亭の女将はなりたくない職業でしたが、そうした意識が逆に“新たな視点”を生んだのでしょう。 店舗経営の知識もないまま開店を任され、生来の負けん気の強さで必死に日々を送っているうちに、お弁当に入っていた「西湖(せいこ)」という笹の葉で包んだ和菓子が評判になります。「5個入りとか10個入りにしてほしいという方、あるんと違う?」と売り出したところ、読みが当たりました。 これが、おもたせの店「紫野和久傳」につながります。料亭の味を家庭でも味わえるよう、お菓子やお弁当などを持ち帰れる店舗を1996年に室町和久傳の隣に開いたのです。