甲子園ボウルの連覇が途絶えた関西学院大学、最後のキックを外した俺に、父親は「胸を張れ」と言った
最初は何が起こったのか分からなかった
楯には何が起こったのか分からなかったという。なぜか右足に異変を感じた。「座り込んではなくて、歩いてサイドラインに戻ったんですけど、右足が動かなくなってて。固まってしまってちゃんと歩けてなかったんですけど、流れのままに整列の場所まで行って。何が起きたか分からなくて、涙も出ないし、校歌も唄えない。僕のちょうど前にキャプテン、副キャプテンの4人が並んでて、(永井)励が声を絞り出しながら唄ってるのを見て、『ああ』と思って。口を動かすんですけど声が出なくて。観客席に向かって礼をしたら頭が上がらなくなって。どうやって上げたのかも覚えてないです」 「ハドルをして監督と励がしゃべったと思うんですけど、何も覚えてなくて。そのあと4回生の集合写真を撮る場所へ誰かに連れられて行って、でもどんな表情もできなくて。そのあと各パートの4回生同士でしゃべってましたけど、キッカーの4回生は僕だけだから一人で立ってて。そのあとみんなが来てくれて、いろいろ言ってくれて、やっと『俺が外して負けたんや』と分かって、ウワッという感じでした」 西宮に戻るために新幹線に乗ると、早々に周りの同期たちが楯をイジり始めた。愛のあるイジリであるのは分かっていたからありがたかったが、話が途切れると一人でボーッとしていた。眠ったり、起きてまた試合の最後を思い出したり。「DMでいろんな人が連絡をくれてて、何も言わないとめちゃくちゃ心配されるだろうなと思って、全員に返信しました」 下宿に戻り、観戦に来てくれていた父と電話で話した。「お前にアメフトさせてよかった。体重が60kgもなかった初心者が最後にあそこに立てるまでに成長して。これがどんだけすごいことか。お前、胸張れよ。前向けよ」。楯は泣いた。泣きに泣いた。
サッカー部に入れず、父の勧めでアメフトへ
横浜市内で生まれ育った楯はサッカー少年だった。高校選手権の神奈川県予選を観戦に行って、県立鎌倉高校の頑張りに心を打たれた。このチームでサッカーを続けたいと思った。自由な校風も、七里ガ浜というロケーションも気に入って受験し、合格。片道1時間45分もかけて通った。ボランチやアンカーでプレーしたが、2年生の秋に右ひざを痛め、約1年間はサッカーができなかった。 大学でもサッカーを続けるつもりだった。しかし関東の強い大学のほとんどはスポーツ推薦でないとそもそも入部できない。そんな中、数々のプロを送り出している関西学院大学のサッカー部は、スポーツ推薦がなくても、入学後に走力テストをパスしさえすれば入れると知った。楯は指定校推薦で関学の文学部に進んだ。 そしてサッカー部の走力テストに臨んだ。持久走には自信があったが、短距離走は苦手だ。ゴールからゴールまでの105mを16秒で走って44秒で戻ってくるのを10往復というインターバル走で脱落し、入部はならなかった。その日の夜に電話で父に相談すると、かつて同じように神奈川から関西へやってきてフットボールを始めた父は「アメフトやれや。ボール蹴るんやったら自信あるやろ?」と言われた。その翌日にはアメフト部に電話して、練習を見学させてもらった。そのとき、4年生のキッカーだった永田祥太郎が話を聞いてくれて、背中を押してくれたのが決め手になって入部した。 「同期で僕が最後に入ったんじゃないですか? 4月末か、5月に入ってたかもしれないです」と楯。フレッシュマンがみんなで取り組むトレーニングも終盤に入っていた。楯が苦しんだのが筋力トレーニングだ。当時は体重が57kg(現在は身長172cm、体重75kg)で、ベンチプレスは50kg、スクワットは100kgが上がるかどうか。ベンチ100kg、スクワット150kgが上がるまでは防具を着けた練習には入れないというルールがあった。「スクワットはまだよかったんですけど、モチベーションの問題もあってベンチプレスが上がらなくて。しかも手首にガングリオンができちゃって」。1年生の秋シーズンは背番号をもらえず、試合ではスタンドのスポッター席からフィールドまで、分析内容が書かれた紙を運ぶ役割をしていた。練習ではひたすらにボールを蹴っていて、リーグ戦を見てようやく、FGがスナップ、ホールド、キックという流れなのだと知った。最初に出場したのが1年生の冬、関西大との控え組同士の試合(JV戦)。PATを2本決めた。