てんぷらを禁止されていた江戸の将軍は、普段は何を食べていたのか
寿司や天ぷらをはじめとするお江戸生まれのファストフードは、いまや高級料理の一種となり、国境を越え世界中で愛されている。ところがこのファストフード、江戸時代当初はあくまで庶民の食べ物であり、将軍は口にすることができなかったという。彼らは何を食べて暮らしていたのだろうか? 香港メディアが諸説を紹介 「天ぷら」はいかにして「日本料理」になったのか? ※本記事は『江戸の食空間――屋台から日本料理へ』(大久保洋子)の抜粋です。
御所に準ずる
華のお江戸の庶民は、いかにも自由で華やかそうではあるが、封建時代の身分制度は厳然としており、将軍を頂点にすえた士農工商の階級制度は食事にも大きく反映している。後に述べるが、将軍は庶民が喜んで食べていたファストフードの串ざしてんぷらはもちろんのこと、あぶらものは食べてはならなかったのである。 徳川家康は、質素を旨とする武将の感覚を持っていたとみえて、日常の食事は一汁三菜(味噌汁に三品のおかず)を旨とするよう決めていたという。 それにしても将軍ともなれば、なにかにつけて豪華な食事をしていたに違いない。家康の死因は鯛を油で揚げたものがそのきっかけであったといわれている。情報通の家康が、堺の茶屋四郎次郎の話をきいてさっそくにためして食べたのが興津鯛の揚げ物で、いつしかこれは鯛の「てんぷら」ということになっている。 では、江戸庶民の誇りであり、支えでもあった江戸城の将軍は、どんな食事をしていたのだろうか。じつは将軍の食事は、京都御所のしきたりを基本としたものであった。とはいえ、江戸でとれる農産物や魚介類はたかがしれており、京料理の材料がそう簡単には手にはいらない。そんな背景を知るエピソードが残っている。 江戸の初期、たとえば三代将軍家光(在職1623~1651年)の頃、毛利秀元が持参した弁当に鮭の切身があり、老中のような人までが珍しがって、珍味にあやかったという有名な話がある。現在からすれば、たかが鮭の切身に裃つけたお歴々がむらがっていたかと思うとおかしい。 元禄(1688~1704年)の頃までは大名、武士ともどもつましい暮らしをし、食事も一日二回が中心で、各人のお腹の空き具合で間食をとっていたようである。お八つどき(午後2時頃)にとった軽い間食(お菓子のようなもの)が「おやつ」の語源となる。 元禄期以降になると多くの分野で生産性が高まり、物資の流通も高まった。とくに油は照明用に消費され、人々の起きている時間が長くなったと思われる。そのことも原因となって三回食が定着している。(続く) レビューを確認する 第2回では、江戸時代には成人が一日当たり五合も食べていた米の事情を振り返る。純白米は庶民にも少しずつ行き渡るが、それはとある病の原因にもなった。
Hiroko Okubo