ルイ・ヴィトンでジュエリーデザイナーを務める名和光道さんに聞く、欧州有名メゾンでキャリアを築くまで
旅先でのふとした出会いが今後の自分の人生に大きな影響を与えることがある。現在ルイ・ヴィトンで、ハイジュエリー・デザイン部門のマネージャーとして活動する名和光道さんも、そんな経験をしたひとりだ。 名和さんをジュエリーの道に進ませたのは、じつはロンドンで行われていたティファニーの展覧会。ここを訪れたことがジュエリーデザイナーとして歩み出すきっかけになった。パリで名和さんに、ジュエリーとそのキャリアについて聞いた。
考えが解放された場所
冬の寒さがパリの街中に残る3月半ばの朝、通りを歩く人がまだまばらなルイ・ヴィトン本社前にあるイタリアン・カフェで、名和さんと会う約束をした。セーヌ川にかかる橋、ポン・ヌフのたもとにあるパリの一等地である。
名和さんは物腰が柔らかな人だ。現在43歳。2004年、24歳のときにパリに来て、ロレンツ・バウマーからキャリアをスタート。その後ヴァンクリーフ&アーペル、ロンドンのグラフを経て、再びパリに戻ってルイ・ヴィトンと歩んできた。その経験と行動力が、外面に出てくるようなタイプではなく、しっかりと内に秘められている人だ。 名和さんにとってパリは「本当にやりたいことは何だろうと、考えが解放された場所」だという。私とは偶然にも同じ年の生まれ。「松坂世代ですね」と取材はじめに投げかけると、お互い笑顔で少し初対面の緊張がほぐれた。
偶然だったパリに住むという選択
名和さんはもともと絵が好きだった。祖父が始めた呉服屋の次男として京都で生まれた。 両親はどちらも多摩美術大学の卒業生。祖父も芸大で教鞭を執ったことがあるという芸術に近い環境で育った。名和さん自身も高校は銅駝美術工芸高校(現在の京都市立美術工芸高校)に進学するなど、美術に囲まれて育った。 しかし大学に進んだところで転機が訪れた。家業の呉服屋の倒産と父親の死だ。 「働かないといけなくなったんです。兄が東京の大学院に行っていたので、その下宿先に転がり込みました。当時は『カーサ ブルータス』などの雑誌で家具ブーム。建築に憧れがあり、父の知人の紹介でインテリアデザインの会社で働き始めました」 突然の環境の変化に名和さんは戸惑った。当時は先が見えないなかとにかく働いたそうだが、このままではいけないと思い、海外へ行こうと考えた。家具やインテリアに関わっていた関係上、イタリアに惹かれつつも、最終的にはフランスを渡航先に選んだ。 「姉がフランス人と結婚していてフランスに住んでいたんです。最初の海外生活ですし、お金もそんなになかったですし、姉の家に滞在してもいいと言ってもらえたので。フランスを選んだのは偶然といえば偶然ですが、懐事情によるところが大きかったですね」 そこで名和さんは現在につながるキャリアの糸口を見つけることになる。
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