ルイ・ヴィトンでジュエリーデザイナーを務める名和光道さんに聞く、欧州有名メゾンでキャリアを築くまで
ティファニーの展覧会でジュエリーの道を志す
2004年、24歳でやってきたパリは、名和さんにとってとにかく楽しい場所だった。 「友達と一緒に住んで、昼間は町中華でバイトをして、夜は絵を描いて、それを友達と見せあったりしました。18歳から、ろくに青春もなかったですし、こういうのは初めてでした」 パリではファッションの仕事に携わる友人も多くできた。交友が広がっていくうちに刺激もたくさん受けた。自分が本当にやりたいことは何だろうと、自らを見つめ直すようになった。 「家が着物の仕事をしていたこともあって伝統的なことをしたいと思いました。職人のような、後世に残るものづくりに携わりたいとも思いました。ただし、日本の伝統工芸が好きかと言われると、育った環境からか、当時はその良さに気づくにはあまりにも日常に近すぎたんだと思います。私たちの世代って少し違うじゃないですか。モダンなものが好きというか、特にヨーロッパの影響を強く受けていました」 その時に出会ったのが、ロンドンを訪れた際に見たティファニーの展覧会である。 「ジュエリーは芸術性も高いし、職人技もあるし、良いものを作ればこうやって美術館にも飾られる。こんな分野があるんだと感動しました」
アポなし訪問がデザイナーへの道を開く
さっそくジュエリーの仕事に就きたいと思ったが、名和さんはジュエリー業界へのアプローチの仕方が分からなかった。 ジュエリー職人の養成学校も調べたが、学費は高い。また、学ぶ内容も名和さんのやりたかったことと少し違っていた。いくつかの工房に、研修をさせてほしいとコンタクトを取っても、どこも受け入れてくれなかった。当時、名和さんができたことは絵を描くことだけだった。 「それならデザインだと思って。カルティエとヴァンクリーフ&アーペルの写真集を買って、載っているジュエリーを真似して描きました。あとは、少しずつ自分でデザインを考えながら、オリジナルのブックを作りました」 1年ほどジュエリーの絵を描き続け、持っていたフランスの滞在許可証の期限が切れる前に、自分のデザインを誰かに見せに行こうと思った。 「当時、ロレンツ・バウマーがジュエリー業界で脚光を浴びていました。シャネルのジュエリーにも携わっていて、彼のジュエリーの本も見ていました」 しかしロレンツ・バウマーの連絡先は知らない。そこでスタジオへ直接、アポイントメントなしで行ってみた。名和さんに運が味方したのがまさにこの時だ。ロレンツ・バウマーのディレクターがちょうどスタジオにいて、時間も空いていたのだ。 「入り口の呼び鈴を押したら、そのままスタジオに上げてもらえてブックを見てくれました。そして『明日から来ていいよ』となったんです」 当時26歳。名和さんのジュエリーデザイナーとしての人生が始まった。
【関連記事】
- LOUIS VUITTONの新たなメンズ クリエイティブ・ディレクター、ファレル・ウィリアムスのデビューが話題に【2024年春夏パリ・メンズ・ファッション・ウィーク】
- シャネルが贔屓にしたツイード「マリアケント」:アーティスティック・ディレクター、イヴ・コリガンさんとアトリエを巡る
- キム・ジョーンズが蘇らせた「DIOR」歴代デザイナーの創造性:クチュールメゾンを支えた3人のデザイナーの美学に触れる
- フランス人インフルエンサーのクララ・ブランが手掛ける、美濃焼の伝統技法を取り入れたブランド「ATELIER ROUGE」
- 感情と物語を宿すスウェーデン発ジュエリーブランド「Louis Abel」:エンジニアからデザイナーへと転身した創設者がその本質を語る