アンプティサッカー5年(上)“片脚のサッカー”ゼロからの日本代表誕生
元ブラジル代表が日本に「輸入」
この男に触れずに、日本のアンプティは語れない。エンヒッキ・松茂良・ジアス(26)。日本王者クラブ「FCアウボラーダ川崎」 の点取り屋で、日本代表の絶対的エース。競技を持ち込んだ伝道師でもあり、国内アンプティサッカーの象徴的存在だ。 ブラジル育ちの日系ブラジル人3世。5歳の時の交通事故で右脚を失ったスポーツ少年は、10歳で競技に足を踏み入れる。当時、アンプティサッカーW杯王者だった母国の代表に魅了された。練習を重ねて18歳で憧れのブラジル代表入りし、W杯出場。「もう一つの夢だった」と語る日本移住を果たすため、19歳で就職を機に日本へと渡った。 「来日直後からいろいろ調べて、日本では誰もアンプティサッカーという単語を聞いたことがないと知った」。まずはプレーの場を模索。職場の同僚の杉野正幸(42)がコーチを務めていた、知的障害者のサッカースクールに参加する。その時、取材を受けた動画がネット上に残っている。 杉野「自分の常識の枠を超えるプレーにびっくりしました。体をひねって全体重をボールに乗せて、こんなにインパクトのあるボールを蹴れるのか、つえに何か仕掛けているんじゃないかと疑いました。どんな手順で広めればいいのか分からないけど、とにかく、この競技に携わりたいと決意しました」 杉野は後に日本代表監督となり、日本アンプティサッカー協会の立ち上げにも貢献。国内での競技の普及や強化に大きな役割を果たす。 競技を広めるため、エンヒッキが杉野の他に大きく頼った のは、義足の製作、調整などに携わる「義肢装具士」。彼らのネットワークを通じて体験者を募り、10年4月に国内初の練習を実施する。日本初のアンプティサッカークラブ「FCガサルス」の誕生の瞬間でもあった。勧誘と練習を重ね、メンバーも増え始めた夏ごろに、W杯出場の話が飛び込む。会場はアルゼンチンだった。 W杯は30か国・地域が加盟する「世界アンプティサッカー連盟」がほぼ隔年で開催。直近14年にあった第10回大会は過去最大となる21カ国・地域が出場した。同連盟の副理事も務める杉野らによると、近年はウズベキスタンやロシア、トルコなどが強豪で、エンヒッキの母国ブラジルは、選手の高齢化などでかつての強さを失いつつある。 エンヒッキ「僕からW杯の話をしたときに、誰も来てくれないかと不安だった。自腹で1人30万円出して、会社を休んで、よく分からない大会のためだけに地球の反対側まで来てくれるか。みんなが行くって言ってくれて、すごくうれしかった」