アンプティサッカー5年(上)“片脚のサッカー”ゼロからの日本代表誕生
実はもう一つ、主催者の大きな仕事があった。選手集めだ。九州は第3回大会まで7人の選手がそろわず、第1回は当日だけの助っ人を加えて戦った。杉野も勧誘に関わった。 「出場できない、と言っていた人に電話して、『仕事が忙しいんだったら僕が上司に手紙を書くから、名前を教えてくれ』とお願いしました。そしたら、『僕が社長なんです』との返事で(笑)。『せっかくの機会なので、観客の前でやってみませんか』とさらにまくしたてて、口説き落としました」。「社長」とのあだ名でも呼ばれるその選手は、その後誕生した「関西セッチエストレーラス」に所属し、主力として活躍している。 翌12年の第2回大会ではさらに参加クラブ数、選手数ともに増加。大会後、前回は全員参加だったW杯へ、約40選手から13人を選ぶ初めての代表選考を経て、日本はロシアへと出陣する。世界を知るエンヒッキから見ても、海外と遜色ないレベルの選手も複数加わった。「日本のベストメンバー」「負けて当たり前だった前回とは違う」。 だが、代表に漂う自信は、あっさり打ち砕かれた。(続く) ※後編は11月20日に配信します。