アンプティサッカー5年(上)“片脚のサッカー”ゼロからの日本代表誕生
初の実戦がW杯アルゼンチン戦
当時、大分県から練習のため上京していた加藤誠(32)は振り返る。「Youtubeで見たエンヒッキの映像が、あり得ない迫力だったんですよ。それと、自分が日本代表になれるんだ、って」。小中高とサッカー部で、社会人になってからもフットサルを楽しんでいた加藤。交通事故で左脚を失った彼にとって、サッカーができること、世界で戦えることは、アルゼンチン行きを決意させるには十分すぎる魅力だった。選手10人、紅白戦すらできず、実戦未経験の日本代表は10月、南米へと旅立った。 W杯初陣、どころか、エンヒッキを除く9人にとっては人生初の試合。相手はホームのアルゼンチン。観衆は「少なくとも数千人」(加藤)「1万人はいた」(杉野)と振り返る大アウェー。「もちろん勝てるとは思ってなかった。とにかく緊張の表情で、パスを要求しても何も聞こえてない選手もいた」(エンヒッキ)。初戦を0-8で落とすと、1次リーグ、順位決定戦も全敗。5戦5敗、得点1、失点28が日本の船出になった。 金も時間もかけて乗り込んだ結果。「もう二度とやりたくないと思うのでは」。エンヒッキらの心配は杞憂だった。大観衆に囲まれてのプレー経験は、勧誘活動へ選手たちを駆り立てた。加藤は地元・九州で選手を集め「FC九州バイラオール」を立ち上げ。神奈川では「TSA FC」も発足していた。のちのち他の代表選手も、地元や転勤先で次々とチームを結成することになる。
世界の舞台での苦い経験を思い出だけにしたくない――。たどり着いた答えは国内大会。選手人口の拡大、競争を生み実力を底上げすべく、関係者は動く。強くなるために、目標を持つために、とにかく試合の機会が足りなかった。W杯から1年後の11年12月、3チーム、約30選手を集め、記念すべき第1回日本選手権開催に至る。 杉野「W杯は行ってしまえば、主催国の運営にのっとって試合をするだけですけど、未経験の自分たちが大会を運営するのはとてつもない労力でした。お金を持ってくる、会場を設営する、運営する、スタッフを募る、集客する、という全ての要素を一気にやらないといけない。それだけに達成感は大きかった。何よりもうれしかったのは、大会がメディアに取り上げられて、やりたい、見たいと行ってくれる人が増えたことです」