娘を突然殴りつけた夏目漱石が陥った異常心理とは
完璧主義、依存、頑固、コンプレックスが強い。どんな人にも、こうした性質はあるものです。しかし、それが「異常心理」へとつながる第一歩だとしたら……? 精神科医・岡田尊司さんが、私たちの心の中にひそむ「異常心理」を解き明かす。『あなたの中の異常心理』から一部を抜粋してご紹介します。
ロンドン留学で夏目漱石に生まれた「被害妄想」
夏目漱石は、子ども時代里子に出されたり養子にやられたりしたうえに、実家に戻ってからも実父に疎まれたこともあり、ひがみ根性が強かった。 松山中学に赴任しても、そこになじめず、そのときの体験をつづった『坊っちゃん』には、土地の教師や生徒に親しみを覚えるというよりも、得体のしれない者として目の仇にする主人公の態度が顕著であるが、それは裏を返せば、漱石が、教師や生徒から疎外感を味わっていたということでもある。 そんな漱石が明らかな異常心理に陥ったのは、ロンドンに留学中のことである。小柄な漱石からすると、背丈の高いイギリス人は、体格からして強い劣等感を抱かせる対象となった。 さらに官費から支給される金だけで留学費用を賄わねばならなかった漱石は、経済的にも余裕がなく、社交や外出を極力控えねばならなかったこともあって、次第に下宿にこもりがちの生活となった。真っ暗な部屋にうずくまって、食事もせずに、泣いているという状態にまで陥った。 下宿屋のおかみである老姉妹は漱石のことを心配してくれていたのだが、漱石はそれはうわべだけで、陰では自分の悪口を言っていると思い込んでいた。「それからまるで探偵のように、人のことを絶えず監視してつけねらっている」とまで勘繰っていた。被害妄想や幻聴にとらわれていたのである。 「気分転換に自転車に乗ってみては」と勧めてくれたのも下宿屋の老姉妹で、同じ下宿にいた日本人留学生が漱石に乗り方を教えてくれたのだが、漱石はこうした親切も、「悪意ある敵」からの責め苦だと受け止めてしまうのだった。 一刻も早く帰国して、精神を休めることが必要だったと思われるが、そうした状況にありながらも、漱石は帰国費用として届いた金で、取り憑かれたように本を買い漁(あさ)るという具合で、同宿の留学生が心配して、帰国の船のチケットを確保させたほどであった。 学問をして業績を上げねばならないという使命感だけが空回りしていたと思われる。