典型的な平山城・越前大野城、史実に基づかない「はみ出し系天守」よりも奇抜だった?城主・金森長近のセンス
(歴史ライター:西股 総生) ■ のちに茶人としても名を馳せた金森長近 越前大野という街の印象をひとことで表すなら、「清冽」であろうか。山々から流れ込んだ水が、小さく開けた盆地の中にこんこんと湧き出している。おかげで、醤油やお酒もよいものができる。 【写真】天守から見下ろした天守曲輪の外枡形虎口。その先の虎口(画面奥)まで見通せる=撃ち通すことができる。実戦本位のタイトな縄張だ 近代化の流れから、少し取り残された感のある小さな街並も、それゆえにしっとりした風情を残していて好ましい。街なかに背の高い建物がないおかげで、小高い丘の上にある城が、今でも街を従えているような空気感がある。その城を、地元の人たちは親しみをこめて亀山城と呼ぶ。 鉄道で越前大野を訪れるなら、福井からJRの越美北線に乗る。北線があるということは南線もあってしかるべきだが、いま鉄道路線図を見てもJRに越美南線はない。越美線は、かつて北と南から計画されたが、険しい山並みに阻まれて、ついに結ばれることなく、越美南線は第三セクターの長良川鉄道に名を変えた。 北と南とは越前と美濃、だから「越美」なのである。この清冽な盆地は、また一方で交通の要衝でもあったのだ。とりわけ戦国時代の後期、越前に兵を進めた織田信長にとっては重要な意味をもった。美濃から郡上八幡方面を通って(越美南線のルートで)直接、越前に抜けられるルートを押さえる、橋頭堡の位置にあったからだ。 信長はこの地に金森長近という武将を据えた。長近は、天正3年~14年(1575~86)にかけて当地を領し大野城を築く。のちに彼が飛騨に転じてからは、当地の領有は転々とし、天下の趨勢の変化とともに戦略的重要性も薄れていった。天和2年(1682)に譜代の土井氏が封じられてようやく落ち着くものの、石高わずか4万石。 こんないきさつだったから、長近以降の領主たちは、さほど大がかりな改修を加えなかったようだ。おかげで、この城は石垣や縄張などに天正年間の様式をよく伝えている。 越前大野城は丘の上に本丸、麓に二ノ丸を置く典型的な平山城だ。 本丸を中心とした丘の上の曲輪群は、地形に逆らわずコンパクトにまとめられ、その端をキュッと絞るように虎口を厳重に拵えてある。なるほど、亀が甲羅に手足を引っ込めるように防備を固められるわけだ。長近殿、なかなかできる御仁とお見受け申す。 天守台には、昭和43年(1968)に竣工した鉄筋コンクリート製の天守が、古色を帯びて建っている。史実に基づかない「はみ出し系天守」だ。江戸時代の絵図を見ると、今のコンクリ天守とは似ても似つかない形の天守が描かれている。金森長近のプロデュースした天守は、われわれが知るどの天守とも異なる、奇天烈なデザインだったらしい。 長近は、のちに茶人としても名を馳せる人物で、彼が越前大野から飛騨に転じて築いた高山城の天守も、復元案によればかなり奇天烈な形をしていたようだ。むむ、長近殿、やはりできる御仁であったか。 そんなわけで、現在のコンクリ天守は、史実から完全にはみ出しちゃっているのだが、城下から見上げると、なかなかにカッコいい。もし自分が城を築くとしたら、あるいは大金持ちになって自宅を天守の形に建てるなら、こういう形に建てたい、と思うくらいだ。 ほどなく築60年を迎えるコンクリ天守は、近くで見ると傷みも目立ち、先行きが少々心配になる。とはいえ、金森長近の天守は、現代人の美的センスではどうせ再現できないから、今のコンクリ天守を何とか補修して、存続させてもらいたいものである。
西股 総生