「俺が市議選に出る!」プロの世界で挫折を味わった“元浦和レッズ戦士”はいかにして政治家へと転身したのか。「なんでもトライしたい性分なので」【波瀾万丈物語】
建設業、焼き肉店店長、通信会社、フットサル場経営、そして夢先生も
浦和時代も余暇には参考書を読み、建築関係の勉強をした。 原点回帰とばかり、96年4月から都内にある専門学校の建築設計科に2年間通い、98年春に埼玉県内の建設会社に入社。営業と設計をこなし2年目の売り上げは目覚ましく、「仕事が楽しくて辞める理由は何もなかったが、田口さんのラブコールに心を動かされたんです」と中学生からの夢に一歩前進したというのに、2年で退職し飲食業に身を転じる。 浦和時代のチームメート、田口禎則がJR浦和駅近くで経営する焼肉店の店長を頼まれたのだ。「初めてのことにはなんでもトライしたい性分なので、この業界も面白そうだなという発想でした」と説明する。 しかし店長職は4年で終わり、今度は派遣社員として通信会社に勤務し、携帯電話やテレビ放映権などの外回りを担当。しかしここも2年で辞めた。“明確な人生設計を考える頃合いではなかったのか?”と水を向けると、「通信会社にいた時からフットサル場を造り、サッカーの指導者になりたかったんです」と温めていた構想を明かした。 自宅がある旧浦和市内は地代が高いうえ、周辺地域にフットサル場がいくつかあったことで断念。リサーチした結果、近隣の春日部市や草加市とともに人口が多く、付近にフットサル場のない越谷市に決め、2006年12月に「FUTCOM」をオープンさせ、翌年同市に転居した。 開設から数年は経営的にも苦戦したが、3年目あたりから軌道に乗り、スクールや貸し出しなどで会員も増えた。昨年から埼玉県社会人リーグ2部、KONOSU CITY FCの練習場のひとつにもなった。監督兼選手は元浦和の永井雄一郎だ。 05年から長らく埼玉スタジアムのサッカースクール講師を務め、10年からは越谷西高校の外部コーチに就任。障がい者サッカー教室などを含め、これまでに延べ10万人以上を指導した。日本サッカー協会が小学5年、中学2年生を対象に実施する「夢の教室」では“夢先生”として50校以上を訪問。夢に向かって努力すること、仲間と協力することの大切さを伝える事業で、07年の開設当初から携わっている。 仕事柄スポーツ施設の利用頻度は高く、そんな折に新しいことにトライしたくなるムシが騒ぎ出した。 越谷市営しらこばと運動公園は、04年の埼玉国体サッカー成年女子の会場にもなった。斎藤はここを頻繁に使っていたが、照明を点灯してもらえる時刻が遅いことに不便を感じ、市のスポーツ振興課に陳情したが実現しなかった。 市議になってそんな環境を整備する夢を抱いたのが14年で、立候補を決断したのが22年の暮れだった。 妻まゆみさんとは子育てについて日常的に話し合うそうだが、22年の年末は互いの意見がかみ合わず激しい口論に発展。「学校も市も頑張っているのに何もしてくれないと言うのなら、俺が今度の市議選に出る」と言い出し、昨年4月の越谷市議会議員選挙に立候補することになった。