「つまらん人生でした」…戦後、子どもたちに「戦犯」と呼ばれ石を投げられた「零戦搭乗員」が晩年に語った「意外な本音」
眠っていた機密文書
太平洋戦争が終わるまで、日本陸海軍の軍事機密情報は、最高刑を死罪とする「軍機保護法」により、厳格な運用が定められていた。退役軍人である父も、「軍機」「軍極秘」の意味を十分に認識していたからこそ、誰の目にも触れぬよう大切に保管していたのだ。 だがすぐに、狼狽は苦笑いに変わった。戦争は33年も前に終わり、海軍も消滅した。いくらなんでも、もう時効だろう。 桐箱は、原爆の爆風で蔵が傾いたときにも無事で、箱に納められた書類も、経年による傷みはあるものの、十分に判読できる状態であった。進藤はこれらの書類を、定位置にしているソファから手の届く棚に置き、折に触れて読み返した。 そんな書類がなぜ私の手元に来たか。それは平成12(2000)年2月に進藤が亡くなり、進藤の妻・和子が夫の遺品整理をするなかで、「海軍時代の紙の束は、私には不要だからチリ紙交換に出そうと思う」と危うく処分されるところを、「奥さんがいらないのなら私に預けてください」と、広島まで救出に行ったからだ。
機密文書の中身とは
前置きが長くなったが、書類の中身を見てみよう。本文のなかにはパソコンで表示されない旧字もあるので、適宜新字、新仮名遣いに直して紹介する。 最初に綴じられているのは、11月24日付、1ページめに「軍機」の朱印が押された「機密第一次発進部隊命令作第一號」。第一次発進部隊指揮官・淵田美津雄中佐の名前がある。 2ページめ以降には第一次発進部隊の編成表、発艦時刻、集合、進撃の要領がこと細かに書かれ、それぞれの隊の攻撃目標も記されている。 淵田中佐直率の水平爆撃隊(九七艦攻、800キロ爆弾を装備。高度3000メートルで編隊を組み、水平飛行をしながら爆弾を投下する)の目標は〈一・主目標 戦艦四隻以内爆撃 二・副目標 (一)空母(二)甲巡(三)其の他の艦艇〉とある。村田重治少佐率いる雷撃(九七艦攻、魚雷攻撃)隊は〈一.主目標 戦艦(四隻以内)空母(四隻以内)二・副目標 (一)甲巡(二)其の他の艦艇〉、そして高橋赫一少佐の率いる急降下爆撃隊(九九艦爆、250キロ爆弾装備)はフォード島とヒッカム飛行場の格納庫、地上の敵機、板谷茂少佐率いる制空隊(零戦)は〈空地ノ敵機〉とある。