「箱根を走る彼らはプロランナーではなくアマチュアの選手」伝説のプロデューサーらが語る箱根駅伝
2025年1月に第101回大会を迎える東京箱根間往復大学駅伝競走、通称「箱根駅伝」。 【写真】この記事の写真を見る(2枚) 今や正月の国民的スポーツイベントとして全国的な人気を誇る箱根駅伝だが、日本テレビが初めて完全生中継に挑んだ1987年の第63回大会の舞台裏は、前例のない挑戦の連続だった。 電波を遮る箱根の山々、300名ものスタッフの食事と宿の確保など、多くの課題を抱えながら、手探りで中継準備を進めていった。 今なお語り継がれる中継の舞台裏を綴った『 箱根駅伝を伝える テレビ初の挑戦 』(著:原島由美子)より、箱根駅伝の初代チーフプロデューサーの坂田信久氏と初代総合ディレクターの田中晃氏の第100回大会後に行われた対談を一部抜粋して公開する。
第100回大会をどこで見ましたか?
田中 私は、日本テレビを退社してから、箱根の山の中で見たり、沿道で見たりしたこともありましたが、ここ10年くらいは、テレビの前ですね。アナウンサーのコメント一つをとっても、どれだけのスタッフが取材をして、この言葉になったんだろう、と胸が熱くなります。映像を見ても、カメラマンやディレクター、マイクマンがいて……。いろんな人の思いが詰まっている。一言も聞き逃すまい、ワンカットも見逃したくないという思いで、テレビの前にいるんです。箱根駅伝も好きですが、それ以上に、「箱根駅伝中継」が好きなんですよ。 私と坂田さんが初めて完全中継をしたのも、ずいぶんと昔のことになりましたね。 坂田 昭和62年、第63回大会でした。40年近くたったんだねぇ。自分の人生の半分くらいと考えると、驚きますね。 田中 「第100回」ということを考えたときに、必ず思い出すのは、第90回大会ぐらいのときに坂田さんが「100回大会は、金栗四三(かなくりしそう)が第1回大会で掲げた目標、アメリカ大陸横断をやってほしい」と語ったことです。そういう夢をもっている坂田さんはすごいと思ったんです。 坂田 先人のロマンを、今の選手たちがアメリカ大陸横断を成し遂げるドキュメンタリー番組として放送しても面白いだろうな、と思ってね。ただ現実には、今のテレビ局で働く人たちの多忙さを考えると難しいでしょうね。