安売りと買収でダイヤ王に 帝国主義学び南ア宰相目指す セシル・ローズ(中)
1870年代に「アフリカのナポレオン」の名を轟かせたセシル・ローズのとどまることを知らない快進撃はまだまだ続きます。ダイヤモンド企業が乱立した70年代半ばから80年代にかけては、生き残りを賭けた熾烈な戦いが繰り広げられました。 成功を手にした後、経歴をつくるためにと、鉱山師のかたわら、オックスフォードの大学生となりました。ローズは何を学び、それが今後の人生にどのような影響を与えたのでしょうか? 市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。
ローズはダイヤモンド企業の危機をどう切り抜けたのか?
経済が好況期はみそもくそもごっちゃになり、玉石混交でも、不況期になると玉と石を選り別けられる。3000を超す業者の中でもごく少数の勝ち組と大多数の負け組に分けられていく。鈴木正四著『セシルローズと南アフリカ』によると、 「1876年(明治9年)はまさにダイヤモンド企業の危機であった。この危機を切り抜けた者がやがてこの市場の独占的支配者となるのであるが、その中にセシル・ローズの名もみられた。彼はこの危機をどう切り抜けたか。伝記作者の多くは、彼の不朽の信念とか、学問的素養とか、直感的洞察力とかに帰している。しかし、基本的には、今日でいう『ダンピング(投げ売り)』であった」 ローズはドイツ・ハンブルグのリッペルト商会と提携して、これまで蓄積してあったダイヤの投げ売りを始めた。肉を斬らして骨を断つ作戦である。ローズの投げ売りによって市場から撤退する同業者の鉱区を買収、合併を図る。するとダイヤの市況がV字型で回復、勝ち組の資本蓄積は一段と進む。 これより先、ローズはキンバリー鉱山から鉱石の品質の優れたド・ベールス(デビアス)鉱山に移った。1877年、24歳のローズはド・ベールス鉱山の支配権を手中に収めた。ローズは価格の支配権を握った。ダイヤ業者の集約化が進み、ローズは3大鉱山の一角を占めるに至る。デビアス社の資本金は1882年の20万ポンドが1888年には233万ポンドに膨れ上がる。