平山亜佐子 断髪とパンツーー男装に見る近代史 IS(インターセックス)と思われるお秀、おふじの場合
誰もが知っている芝のお秀
今回は、1881(明治14)年4月13日付読売新聞に掲載された魚屋の娘お秀の記事を紹介したい。 この年の3月1日、帝政ロシアで人民主義(ナロードニキ)の過激派によるアレクサンドル二世暗殺事件が起こった。これを機に議会設立の気運が一気に高まり、日本でも折から盛り上がっていた自由民権運動への追い風となる。7月、開拓使(北方開拓のための官庁)を巡る癒着問題が明らかになり政府に批判が集中、伊藤博文はこれを収束させようと大隈重信を追放し、国会開設の詔勅発表、10年後の議会開催を決めた。これが10月に起きた「明治14年の政変」である。明治政府発足から14年、藩閥のしこりはまだまだ健在で、日本国家は憲法も議会もこれからという揺籃期だった。 一方、庶民の生活はといえば、3月1日から東京上野公園で第二回内国勧業博覧会が開催され、当時の書生をモデルにした小説、坪内逍遥『当世書生気質』に「げに東京の市街〈まち〉にて呆るゝまでに数多きは、かの縁日とかいふものなりかし」と書かれるほど、東京では連日縁日が立ってた。夏は氷水とよばれるかき氷(当時は人工技術がなく、函館氷が主流)が味わえ、風月堂は高価ながらすでに西洋菓子(洋酒入りボンボン、ビスケートなど)を販売。上方の食べ物だった鍋焼きうどんが東京進出しはじめたのもこのころである。芸能では、三遊亭圓遊の「ステテコ踊り」や三遊亭萬橘の「ヘラヘラ踊り」などが流行した。 そんな1881(明治14)年4月13日付読売新聞に掲載されたのが、以下の記事である。 (旧かな旧漢字は新かな新漢字に直し、総ルビを間引き、句読点や「」を適宜付けた) 〇度々〈たびたび〉新聞へも出た、芝でお秀といえば誰も知って居る男か女か曖昧な本芝二丁目の魚屋内田徳蔵の娘。お秀は兎角〈とかく〉に女の業〈わざ〉を嫌い男の業〈わざ〉を好むのみか、近頃は髪を刈って散髪となり大紋附の半纏に目くら縞の股引〈ももひき〉を履〈はい〉て三尺帯を腰に締め、言葉つきさえ男の真似をしているゆえ、近所の者は名は呼ばで男女〈おとこおんな〉と評判するのが自然と其筋〈そのすじ〉の耳に入り、先頃警察署へ呼出され厚く御説諭の上〈うえ〉下げられたるに、お秀は尚も懲りずまに男作りに身を拵〈こしらえ〉、諸方を遊び歩く内、芝神名社内の水茶屋兼原方〈かねはらかた〉の雇女〈やといおんな〉おこま(十八年)というに見初められ、別〈わ〉りなき中と成〈なっ〉て后〈のち〉終〈つい〉に先月の下旬〈すえ〉、お駒を連れて欠落〈かけおち〉し、兼〈かね〉て懇意にする同所新濱町の島崎八十吉を便り、昨今世話に成〈なっ〉て居るというから、女が女に惚るというは余りおかしい話だと内々聞き糺〈ただ〉して見ると、お秀には陰嚢〈きんたま〉はないが男の何も女の何も持て居るとの事なれど、記者はまだまだ信用が出来ない。