「船」の地図記号から見えてくる、大正・明治時代の暮らし。日本橋から銚子まで18時間以上もかかる汽船が多く利用された理由とは
地図を読む上で欠かせない、「地図記号」。2019年には「自然災害伝承碑」の記号が追加されるなど、社会の変化に応じて増減しているようです。半世紀をかけて古今東西の地図や時刻表、旅行ガイドブックなどを集めてきた「地図バカ」こと地図研究家の今尾恵介さんいわく、「地図というものは端的に表現するなら『この世を記号化したもの』だ」とのこと。今尾さんいわく、「明治末の日本橋蛎殻町付近の地形図を見ると、箱崎川の周辺には船の形をした記号で賑やか」だそうで――。 【図】明治末の日本橋蛎殻町付近の地形図 * * * * * * * ◆関東各地への蒸気船が出ていた時代 東京の日本橋蛎殻町(かきがらちょう)といえば「安産の神様」の水天宮(すいてんぐう)で有名だが、その南側には高架橋が複雑に交差した首都高速道路の箱崎ジャンクションがある。 東京の自動車交通の要衝なのでいつも渋滞している印象だが、この下にはかつて箱崎川という運河があった。 これを跨ぐ土州橋のたもとには汽船乗り場があり、ここを起点に関東各地への蒸気船が出ていたのである。 利根川筋では茨城県の古河や群馬県の館林に近い川俣、川下の方面では霞ヶ浦を経て茨城県の土浦、佐原から鹿島(神宮)、遠く千葉県の銚子にも行っている。それぞれ各駅停車のように河岸に停泊しながらの航路であった。 『川蒸気通運丸物語』(山本鉱太郎著、崙書房)に載っている大正初期の時刻表によれば、銚子行きの通運丸は1日2往復、蛎殻町を夕方6時に出る便は隅田川を渡ってすぐ小名木(おなぎ)川に入って東進、扇橋などを経て行徳(現浦安市)には夜9時に着く。 そこから江戸川を北上して市川、松戸と遡行し、流山で日付が変わって0時24分。 その先は少し上流側の利根運河(現野田・流山両市の境界付近)で東へショートカットして利根川を下り、茨城県の取手を経由して今は印西市となった木下(きおろし)に着くのが朝の4時54分である。 伊能忠敬ゆかりの佐原(現香取市)の河岸は8時半、終着の銚子着が12時20分という、合計18時間20分の長旅であった。