「船」の地図記号から見えてくる、大正・明治時代の暮らし。日本橋から銚子まで18時間以上もかかる汽船が多く利用された理由とは
◆用語の改訂が続く 「昭和40年図式」になると、車両渡の用語もさらに「渡船(フェリーボート)」に変わっている。 日本語で「フェリー」といえば旅客と自動車を積み込める少し大きめな貨客船を連想するが、英語のferryは川の両岸を往来する小さな渡船も含む広い概念だ。 地形図の記号としては「大正6年図式」の時点で存在した「汽船渡」「人馬渡」「人渡」は「昭和30年図式」で「車両渡」と「人渡」の2種類に統合されるが、「昭和40年図式」では「渡船および航路」の1種類に統一された(記号は横線のないもの)。 ところが同42年(1967)および44年の改訂で従前の2種類が復活、加えて用語を「渡船(フェリーボート)」と「渡船(人渡)」に変更している。 復活した理由はあくまで私の想像だが、間近の対岸を結ぶ渡船と、ある程度長距離のフェリーの乗り場はたいてい離れた場所にあるため、それが区別できないのは困るという声が寄せられたからではないだろうか。 今のようにスマホでインターネットの情報がすぐ調べられる時代ではない。はるばる歩いてたどり着いてみたら船着場が違って乗り遅れた、という目にあった人も少なくなかっただろう。
◆「下筏」の記号 「昭和30年図式」で2種類になったと書いたが、ついでながらこの時に廃止された記号でぜひ書いておきたいのが「下筏(げばつ)」の記号だ。 常時筏(いかだ)流しを行う河川に記載されるもので、もちろん航路ではないが、今となっては川の歴史を物語る貴重なものだ。 明治末の多摩川の地形図にもこの記号は描かれていたが、「火事と喧嘩は江戸の華」ゆえの旺盛な新築需要を支えたのが奥多摩からの木材である。 上流で組まれた筏を多摩川に流し、現在の大田区の六郷(ろくごう)で引き揚げた。 筏乗りは危険な仕事だが賃金は良く、巧みに筏を操る若者はモテたそうだ。 農村に架かっている低い仮橋などひらりと跳び越え、橋の下を通ってきた筏に降りる。 身軽になった彼らが帰る道に沿って敷かれたのが現JR南武線で、沿線の溝口(みぞのくち)や登戸には「筏宿」があった。