「船」の地図記号から見えてくる、大正・明治時代の暮らし。日本橋から銚子まで18時間以上もかかる汽船が多く利用された理由とは
◆汽船が生き残っていた理由 これはあくまで予定時刻で、河岸での荷物の積み卸しに手間取ると2、3時間の遅延は当たり前で、ひどい時には半日も遅れたという。 それでものんびりしたもので文句を言う乗客もなく、「会計さんの部屋」で売っている弁当を買い、船内販売の菓子を茶請けに一服しながら、船内で知り合った他の乗客と話に花を咲かせていた。 せいぜい100年少々の昔だが、分刻みで忙しく飛び回る現代日本人のご先祖とは思えない。 これだけ乗って運賃は60銭という破格の安さで、銚子までは明治30年(1897)に鉄道がとっくに開通していたにもかかわらずこの汽船が生き残っていたのは、ひとえにこの運賃のおかげらしい。 大正元年(1912)の時刻表によれば、列車は両国橋駅(現両国駅)から銚子まで船の5分の1以下の最速3時間15分で着いてしまうのだが、運賃は3等車でも船の倍に近い1円12銭もかかったのである。
◆「地形図」にも船の記号が 明治末の日本橋蛎殻町付近の地形図(図1)を見ると、箱崎川の周辺には船の形をした記号で賑やかだ。 土佐藩主の山内容堂(やまのうちようどう)が架けた土州橋の右手に見える煙突のある船の記号は「停舩所(ていせんじょ)」を意味するが、そのすぐ右手の煙突から煙が出ている船は「汽舩による通舩」の記号で、銚子行きの通運丸の航路はこれに該当するのだろう。 橋の左側に見える船に楫(かじ)を付けた記号は「舟楫(しゅうしゅう)による通舩」で、破線が左へ向かっていることから、日本橋川へ向かっているようだ。船の側面形に楫が添えられているので、 艪(ろ)で漕ぐ和船だろうか。 女橋の西側に見える池のある庭園(現蛎殻町公園)は京都の豪商杉村甚兵衛邸で、その前に見える船の記号は「人馬渡(じんばわたし)」の中洲渡。 航路が破線で示されているように隅田川東岸の清住町(現江東区清澄)との間を結んでいた。船着場のすぐ近くには浅野セメントの大きな工場が見える(図の右欄外)。 この「人馬渡」の記号は船を上から見た形に横線が一本入っているが、もうひとつ存在した「人渡(ひとわたし)」には線がない。 こちらは葛飾柴又と江戸川の対岸を結ぶ「矢切の渡し」を思い浮かべればいいだろうか。これも艪で漕ぐ舟だったと思われる。 戦前の図式ではわざわざ「汽舩渡」という記号も定めているから、それ以外は人力による渡船だったに違いない。 「人馬渡」の用語は戦後の「昭和30年図式」から「車両渡」に変わる。当然ながらモータリゼーションが進んで馬の活動範囲は狭くなり、お役目が自動車に取って代わられたことの反映だ。