「京終」という地名はなんと読む? 古来の地名が解き明かした1300年前の謎
古くから伝わる地名の語源には、歴史的に重要なヒントを含んでいる場合があります。今回は歴史が豊富な奈良県を取り上げてみましょう。 ■難読地名の成り立ちには歴史解明のヒントが隠されている! 歴史の現場を歩いていると、とても読めない地名や意味の分からない地名に出会います。おそらく語源は古来の歴史を示すのだろうと思われるものがいくつもあります。国の始まりである奈良県を取り上げてみますと、やはり地名と歴史の関係を見ることがあります。 「京終」という地名があります。JRの駅名でもあるのですが、読める方はいらっしゃいますか? これは平城京の南東の端に位置した場所で、「京(みやこ)の果て」という意味で「きょうばて」と読みます。この地名が残っていることで、平城京の境界を想像できるわけですから実に貴重な地名です。 明治の頃、実は奈良に平城京があったことは知られていましたが、いったいどこにどんな規模であったのかは、さっぱりわかっていませんでした。なぜなら710年に遷都されてさまざまな歴史を刻んだ奈良時代は、784年に桓武天皇によって長岡京に遷都され、そのわずか10年後には平安京に遷都されるわけです。つまり奈良はわずか74年間の首都に過ぎなかったという事になります。 「あをによし 奈良の京(みやこ)は咲く花の 匂うがごとく今盛りなり」と小野老(おののおゆ)が称えた平城京も遷都されるとすぐに建物は無くなり一面の田んぼに姿を変えます。 明治28年(1895年/皇紀2555年)に京都で「平安遷都千百年紀年祭」が盛大に行われた時、「ちょっとまてよ……。じゃあ、その前の平城京はどこにあったのだろう???」という疑問が話題になりました。 実は江戸時代の終わりごろに奈良に赴任した奉行所の役人だった北浦定政(きたうらさだまさ)という人が、仕事の合間に、現存した東大寺や興福寺、西大寺などを考慮して丁寧に踏査して作成した「平城宮大内裏跡壺割之図(へいじょうきゅうだいだいりつぼわりのず)」があったのですが、平城京探しが話題になって初めて明治になって世に紹介されました。 当時の平城宮跡周辺は一面の田んぼで、京の中心線だった巨大な朱雀大路などは平安京に遷都されると真っ先に水田化されたようです。平たく広大な田園風景の遠目に東大寺伽藍や興福寺の五重塔などが見えていたのでしょう。 条坊制といって定型区画化された碁盤の目のような京でしたから、どこか一端が判明すればピースをはめるように区割りが判明したのでしょうが、やはり一番大事な大極殿跡がわからなければなりません。 私が調査した話では、当時の字名(あざめい)で「大黒の芝」という場所があったそうで、そこを調査して大極殿の基壇跡を発見したという事です。「大黒」は「大極」だったのです。ここでも暗示されるような古い地名が重要な役割をしたのでしょうね。 そして平城宮跡の保存に大きな貢献をしたのが棚田嘉十郎(たなだかじゅうろう)という植木商でした。今も朱雀門に向かって右手にある「いざない館」の前に銅像がありますね。現在の奈良公園の樹木の多くを植えた人だという事です。 その棚田嘉十郎は、私財を投げうって平城宮跡の保存に努めるために土地を保有したそうで、中には「あいつは古代の宮跡を自分のものにするつもりなのか?」などと悪口を言われつつも、古代の宮跡保存に尽力をしました。しかし、最後は切腹自死をしてしまうという実に悲しい結末を迎えた人でした。 古建築の専門家で、法隆寺非再建論を主張した関野貞(せきのただし)も平城京の発見と研究に大きく学術面から貢献しました。そういう無限の厚意を以って尽力した人々と、古代から残り続けた古地名のおかげで1300年の時を超えた現在の平城宮跡は再現されているのです。
柏木 宏之