「なぜ救えなかったの?」と問われ続けた 8人を津波で失った高校水泳部、「生き残った」元顧問の13年 #知り続ける
岩手県立高田高校水泳部。2011年の東日本大震災の際、海沿いのプールで練習を予定していた部員9人全員が津波にのまれ、7人が帰らぬ人となった。部員のことを心配して学校を飛び出た顧問の一人も亡くなった。被災地の部活動として「最悪の悲劇」と呼ばれながらも、その後も活動を続けてきた。「なぜ救えなかったのか」。そう問われ続けたもう一人の元顧問の目線から、「泳ぎたい」と願った部員やその後を紹介する。(敬称略) 【写真】岩手県立高田高校の水泳部顧問だった小野寺素子さん。部員に慕われていた=遺族提供
「生き残った方の顧問」と呼ばれて
水泳部の元顧問・畠山由紀子(50)は昨年12月、岩手県陸前高田市や大船渡市に点在する計7カ所の墓地を約5時間かけて回った。 最初に訪ねたのは、まだ遺体が見つかっていない高校2年生だった女子部員のお墓だ。 「早く出ておいで。みんな待ってるよ」 周囲を掃除し、花を換え、最後にお菓子の「じゃがりこ」と「アポロ」を手向けた。 「お花より、お菓子の方が喜ぶかなと思って」 そう笑う目元が、わずかに光った。 あの日以来、「生き残った方の顧問」と呼ばれ、周囲から「なぜ水泳部員たちを救えなかったの?」と問われ続けてきた。でも、その言葉を恨んだことはない。 「だって、事実だから。多くの生徒と同僚が亡くなり、私は生き残った」
海沿いのプールへ向かった1台の車
2011年3月11日は午後3時から、学校から約1㌔離れた海沿いの民営プールで練習が予定されていた。部員2人が休み。残る9人がプールサイドで練習前の準備などをしていた。 午後2時46分、大地が割れるように揺れ始める。 校舎内にいた畠山は避難路を確保するため、急いで登校口の扉を開けた。生徒や教職員が慌てて校庭に飛び出してくる。地域の住民も避難してくる中、近くで練習していたサッカー部とソフトテニス部も戻ってきた。でも、水泳部員たちの姿が見えない。 「津波が来るかもしれない。生徒や住民をもっと高いところに避難させよう」。そんな声が上がり、校舎の裏側の高台にある第2グラウンドに避難することになった。 生徒や住民が高台へと駆け上がる中、ものすごいスピードで学校を飛び出し、プールへと向かう1台の乗用車が見えた。運転席には水泳部のもう一人の顧問である女性教諭。まっすぐ前を見据え、ハンドルを握りしめていた。 「水泳部員たちを呼び戻してきます」 同僚の教員にそう告げて、向かったらしい。