「なぜ救えなかったの?」と問われ続けた 8人を津波で失った高校水泳部、「生き残った」元顧問の13年 #知り続ける
水泳が大好きだった先生
自宅に飾られた遺影には、恥ずかしそうにほほえむ女性教諭の姿があった。 高田高校水泳部の元顧問、小野寺(旧姓・毛利)素子(当時29)。 戸棚の上に飾られている米国での記念写真には、家族の背後に打ち上げ前のスペースシャトルが写っている。宇宙飛行士、毛利衛のめいで、震災の約1年前に結婚したばかり。まだ遺体は見つかっていない。 北海道生まれ。小学生の時に始めた水泳が大好きで、高校教師だった父・毛利奉信(78)が出た弘前大学(青森県弘前市)に進学し、水泳部の主将を務めた。 教員試験に合格し、赴任先では「何でもできる先生」と呼ばれた。生徒に愛情を注ぎ、同僚からの信頼も厚い。水泳部員から信頼され、部活の後も新居に部員を招いて談笑していた。 母・みどり(75)は「水泳があの娘を立派な人間に育ててくれた」と懐かしむ。
的中した不安
あの日、奉信とみどりは北海道の親類宅にいた。すごい揺れで、テレビでは娘が勤務する東北地方の沿岸部に津波が押し寄せている映像が流れた。 「素子、大丈夫よね?」 みどりが不安げに聞くと、奉信は言った。 「あいつのことだから、わからない……」。自分の身を守るより、教師の仕事を優先させるかもしれない――。 不安は的中した。 大地震が発生した直後、高田高校にいた小野寺は車で学校を飛び出し、水泳部員が練習するプールに向かっていた。 関係者によると、小野寺はその後、プールに向かう途中に渋滞に巻き込まれ、道路脇に車を乗り捨てて、徒歩でたどり着いた。ところが、水泳部員たちはすでにプールを出て市民会館に避難した後だった。 小野寺は「市民体育館に避難したのではないか」と考えた。その後、市民体育館に向かうさなか、津波にのみ込まれたとみられる。 津波は9人が避難した市民会館をも襲った。3階に避難し、津波にのまれながらも泳ぎ続けた2人が助かったものの、7人が生還できなかった。 奉信は、かみ締めるように言った。 「私は元教師として、教え子を必死で守ろうとした素子を、『一生懸命やったね』とねぎらってやりたいです」