幸せの絶頂にいた東宮妃が吐血して急死…… 毒殺疑惑がささやかれた定子や伊周の妹とは何者か?
■亡き姉の代わりに愛された妹 清少納言が書き残した『枕草子』には、自身が仕える主・定子を中心とした中関白家の栄華が鮮明に描き出されている。そのなかで度々登場するのが「淑景舎(しげいしゃ)の女御」という人物だ。その名を藤原原子(げんし/もとこ)という。 原子の父は藤原道隆、母は高階貴子、つまり彼女は定子・伊周・隆家と同母の妹であり、当時権勢を誇っていた中関白家の姫君だった。 一条天皇に定子を入内させていた道隆は、時の東宮・居貞親王(後の三条天皇)にも自分の娘を嫁がせようと画策する。そして正暦6年1月、原子は居貞親王のもとへ入内した。淑景舎を局として与えられたので「淑景舎の女御」と称され、居貞親王からも当初は寵愛されていたとされている。 『枕草子』には原子が入内した頃のことが描かれている。入内した後、一条天皇の后である姉・定子との間には度々手紙のやりとりがあったものの、その日は初めて原子が定子に直接会いにくるというのだ。清少納言はじめ定子の女房達は準備万端で迎え、姉妹は女房を交えながら語らい続けた。さらに翌朝には2人の両親である道隆や高階貴子もやってきて、大層華やかな様子を目の当たりにしたという。清少納言は原子の姿を初めて見て、「大層素晴らしく、本当にお美しい」「まるで絵に描いたように美しい様でいらっしゃる」と絶賛している。 伊周や隆家も加わった中関白家の家族の団らんの様子や、女房たちが面白がって笑う場面など、なんとも幸せなひとときが実に鮮明に描かれている。それだけに、その後の中関白家が辿る運命が哀しく感じられるのだ。 原子が入内してからわずか3ヶ月後、父・道隆がこの世を去る。さらに、「長徳の変」によって、兄の伊周と隆家が失脚。中関白家はまたたく間に凋落してしまう。それでも居貞親王は十分な後見を得られない原子のことも妻として大事にしていたらしい。内裏の火災によって東三条殿に居貞親王が移った時期も、原子のための区画がきちんと設けられていた。 しかし、原子が居貞親王の子を産むことはなく、居貞親王も原子より先に入内していた藤原済時の娘・娍子を寵愛し続け、2人は子宝にも恵まれた。原子としては後ろ盾となる実家ももはや頼りにならず、親王との間に子もできないとあって、身の置き場のない気持ちだったことだろう。 父を失い、兄たちが失脚し、そして遂に姉の定子が長保2年2月にこの世を去る。その後定子の遺児を養育し、一条天皇に愛されるようになった御匣殿(定子と原子の異母妹)も長保4年6月に亡くなってしまった。 そして原子は御匣殿が亡くなった2ヶ月後に突然命を落とすのである。『栄花物語』には「口と鼻から突然血を出し、そのままお亡くなりになった」という記述がある。『大鏡』によるとこの時原子はまだ22~23歳頃。あまりにも若すぎる死、しかも壮絶な死にざまに多くの人が不審に思ったらしい。『栄花物語』には娍子がその前にしばらく病で臥せっていたのに急に快復し、それと入れ違いになるように原子が命を落としたことから、「宣耀殿の女御(娍子)もしくはその女房である少納言の乳母が何事かを謀ったのではないかと人々が噂した」と書かれている。 続けて『栄花物語』は、居貞親王は普段原子のことを格別に寵愛していたわけではなかったが、自身が即位したあかつきには原子のことも妻としてきちんと遇してやりたいと常々思っており、その死に深く嘆いて、「他の人の衣の重なり具合や袖口を見るにつけて原子のことを思い出す」とこぼしていたこと、兄たちの暴挙を許すことは叶わずとも、原子への愛情は娍子に大きく劣らなかったのだということを綴っている。
歴史人編集部