柳宗悦も認めた「鳥越のすず竹細工」が120年に1度の危機 最後の担い手・柴田恵の伝統をつなぐ想いとは
試行錯誤しながら時代の変化に柔軟に対応
堀さんは著書の中で、「持ち前の負けん気というか、華奢に見えてもしなやかな芯の強さを感じる、恵さん=スズタケと私には思えます」と綴っている。困難を前にしても軸はぶらさず、柔軟に乗り越えようとする柴田さんの姿勢は、まさにスズタケと通ずる。 鳥越のすず竹細工には、とおし、つぼけ、蓋付きかご(小文庫、文庫)、行李、手提げといった伝統的なかごの種類がある。柴田さんは伝統を守りつつも、スマホが入る縦型ポシェットや楕円形の手提げかごなど、時代のニーズに合わせたさまざまな形にチャレンジしている。本の表紙にもなっている「Mスタイルバッグ」は、長野県松本市で大正時代に輸出用に作られていたパーティバッグを柴田さんなりにアレンジを加えて復元したもので、その象徴ともいえる。 「鳥越の作り手は、行李を作る人は行李、ざるを作る人はざる、とそれぞれ得意ジャンルがあります。でも私は行李もざるも手提げも何でも作ってきたので、この形が得意というのがないのです。だからこそ逆に何にも縛られず、自由な発想でデザインして作ることができる。今となってはそれが強みだと感じています」
減り続ける作り手、今自分にできること
柴田さんの家系は父方、母方ともに祖父母の代からかごを編んでいた。とくに母方は名人といわれる人を何人も輩出しており、母の恵美子さんも作り手だった。その恵美子さんが55歳のときに突然病に倒れ、後を継ぐことを決意した柴田さん。結婚して鳥越に戻ったのは30代で、子育て中だった。 「やると決めてから母に編み目について質問したのですが、すでに半身が全く動かなくなっていて。頭ではなく指先で覚えているので口頭では説明ができないのです。元気なうちに聞いておけばよかったと後悔しました。けれど、中学の時以来何十年かぶりにやってみたら、不思議なほど勝手に指先が動いて。そこからは無我夢中で覚えていきました」 柴田さんが始めた1988(昭和63)年頃は鳥越にもまだ作り手がたくさんいたが、安く大量生産しやすいプラスチック素材が普及し始めた影響などで、その後どんどん減少していった。 「当初は私も若手でしたが、年を追ってもずっと“恵ちゃんが一番若い!”と言われ続けてきたので(笑)、後継者が育っていないという現実は肌で感じていました。今はよそから習いたいという人はいますが、地元ではいません。調査したわけではないので定かではありませんが、鳥越で現役の作り手は70~90代の人で10~20人くらいではないでしょうか」 いつの間にか鳥越のすず竹細工を残す立場になっていた柴田さんだが、その想いは強い。現在は私塾を開き、持てる技術のすべてを伝授している。 「失敗しながら覚えていくことも必要ですが、スズタケの状況を考えるとそうは言っていられません。もし途絶えてしまったら復活させるのは大変だし、寂しい。私自身は遠回りしたけれど、こうするとうまくいくというポイントは惜しみなく教えています」 その甲斐あって、現在は鳥越のすず竹細工を生業にしようと励んでいるお弟子さんが3人いる。そして、柴田さん自身にもまだやりたいことが残っている。 「母が倒れる直前に作った二重編みの大きな芋桶(おぼけ)を超えるものをいまだに作れていません。いつかあれを超えるものを作るという目標を忘れないために、そばに置いて鼓舞しています。あとは、頭の中でイメージしている新しい形があるので、それを作りたい。おそらく今まで誰も見たことがない、実用的なものになるはずです」 1000年以上も続いてきた理由について堀さんは、「物理的な条件に加え、揺るぎない精神性が重要。植物と同じで見えない根の部分が肝心なのだと思った」と記している。根の部分を果たしている柴田さんたち作り手に今必要なのは、十分に降り注ぐ水や太陽ではないだろうか。 まずは手仕事の価値を理解し、見合った価格で取引すること、そして作り手が安心して続けられる環境づくりをすること。そのためには行政の力も欠かせないだろう。貴重な伝統を絶やさないために、周囲の私たちができることにも目を向けていきたい。