柳宗悦も認めた「鳥越のすず竹細工」が120年に1度の危機 最後の担い手・柴田恵の伝統をつなぐ想いとは
民藝運動を唱えた柳宗悦からも高い評価
美しさと実用性を兼ね備えている鳥越のすず竹細工は、工芸品の中に生活美を見出し、その価値を高めた『民藝運動』の創始者である柳宗悦(1889-1961)からも認められている。柳の没後60周年を迎えた2021年頃から再び民藝への関心が高まっており、鳥越のすず竹細工も脚光を浴びるチャンスが訪れている。今年4月から6月末まで東京・世田谷美術館で開催された『民藝 MINGEI-美は暮らしのなかにある』展は、“柳が認めた鳥越のすず竹細工”として、柴田さんの手仕事を詳しく紹介する機会となった。 24年5月中に計8日間に及んだgallery KEIANの展示会には全国から柴田さんのファンが訪れ、販売された作品は数日のうちにほぼ完売。大量生産で画一化された商品があふれる現代社会において、優れた手仕事である鳥越のすず竹細工に魅了される人は決して少なくはない。ではなぜ危機的状況に陥っているのか。そこには各地の伝統工芸と同じく作り手の高齢化・後継者不足という課題とともに、鳥越の歴史と材料のスズタケが大きく関係している。
平安から受け継がれる鳥越観音信仰とすず竹細工
岩手県北部の内陸に位置する二戸郡一戸町、山がちで平地が少ない場所に鳥越地区はある。“すず竹細工の里”という案内表示があるわけでもなく、唯一の目印となっているのがこの地の守り本尊、鳥越観音の赤い大鳥居だ。 鳥越観音は平安初期に慈覚大師によって開山されたとの伝説が残る。一説によると、この慈覚大師がすず竹細工をもたらした。部落に疫病が流行した際に大師は観音信仰を勧め肉食を禁じたが、ただでさえ耕作できる農地が限られていたため、鳥や獣なしでは生活できない。その代わりの家業の助けとして竹細工を伝授したというのだ。 最近では御所野遺跡の発掘調査によって、縄文時代からスズタケを使って編み物が作られていたこともわかってきている。起源については定かでないところもあるようだが、事実として鳥越では戦前まで肉食をしていなかった。現在は厳格な決まりはないが、柴田さんは幼い頃から肉類を口にしていない。すず竹細工が農閑期に現金収入を得るための重要な糧になっていたのは確かだ。最盛期の1951(昭和26)年には農村工業の副業として売上日本一になったこともある。 「鳥越で暮らしていて観音様とすず竹細工を切り離して考えたことはありません。毎月『観音様の日(縁日)』には朝からお参りに行きますし、肉食を避けるため煮干しで出汁(だし)を取ることもしませんでした。自然と育つ中でそれが当たり前だったので、特別という感じもないです」 冬場になると鳥越ではどの家でもすず竹細工をしている光景が広がっていた。子どもたちはそれを横目に見ながらいつの間にか技術を身につけていった。 「子どもは祖父母や両親が作るのを手伝ううちに、見よう見まねで覚えていきます。親はとにかく現金を稼がなきゃならないので教える暇はないし、手取り足取り教えてもらった記憶はほとんどありません。流れの中で自然と代々受け継いできました。鳥越という地域は技術を守るためによそへ嫁に出さなかった時代があったくらい、他所に伝えてこなかったのです。でも今はそうは言っていられない状況だと感じています」