「中年の恋」はなぜ恥ずかしいのか?素人相手にガチ恋した文豪の末路が切なすぎる
● 芸者との恋にのめり込み 醜態を晒す田山花袋 こうして花袋は、素人女との仲がうまくいかなかったので、今度は玄人遊びに走るという、非常にわかりやすい行動パターンを取るのである。 もちろん、ここではそのことを倫理的に非難しようというのではない。確かに、霊の愛だの、神聖なラブだのと説いていた者が芸者遊びを始めるということには、ある種のうさん臭さがないとはいえない。だが、君子豹変すというではないか。 それよりもここで興味深いのは、田山花袋の、この性愛行動の変容の前後に見られる意識の変化である。 『蒲団』のスキャンダル性は、そこに弟子に対する師の秘かな恋愛感情が暴露されていたということではなかった。そこで執拗に問題化されていたのは、「中年の恋」という「恥ずべき」振る舞いであった。いい年をして、妻子もあるのに恋心を感じるということが、情けないのであった。 だが、小利との色恋沙汰には、このような問題系はまったくつきまとっていない。花袋は、小利とのすったもんだを『春雨』、『髪』、『一握の藁』などに書き込んだ。 この女性も、岡田美知代に負けず劣らず、花袋を大いに振り回した、花袋も向こうを振り回した。 しかしながら、花袋の感慨は「中年なのに恋のごたごたを起こして恥ずかしい」というようには展開しない。
そこで花袋を苦しめる思いは、たとえば、わかりやすく、女の真情がわからない、本気なのか、ビジネス上のリップ・サービスなのか判断がつかないといったことである(「其女はかれには解らない謎であつた。逢へば必ず新しい好奇心を惹起させるに足りるような複雑した心のスタイルを持つて居た。虚偽と真実と、真実と虚偽と、それが網のやうに深く織り込まれて、其処に一種名状せられない微妙な空気を醸して居た」[『髪』123頁])。 ● 結婚に至らないプロとの情事は 想いが強くても恋愛とは言えない この対比から次のことが明らかになる。 「中年の恋」という問題を立ち上げたのは、素人との恋であり、結婚に至る恋愛であり(芳子が入門を申し込んでくる直前に、芳子との「恋」を予告するような感情が時雄に起こる。それは出勤途中で毎朝出会う「美しい女教師」への懸想であり、その女との情事を夢想する時雄は、さらに「其時、細君懐妊して居つたから、不図難産して死ぬ、其後に其女を入れるとして何うであらう。平気で後妻に入れることが出来るだらうか」[『蒲団』73頁]などと妄想をたくましくしているのである)、いわゆる近代的恋愛であったことがわかるのである。