本当は怒ってよかったんだと気づくことがいっぱいあって…作家・寺地はるなと原田ひ香が語った創作の一端
◆小説を書くうえでの自分なりのこだわり
原田 スーパーでえびの産地を気にとめたりといった部分は新鮮でした。料理研究家の下で料理を習い、料理の仕事に就きたいと思ったこともあるので、小説の中で食を描くときはその視点に立ってしまうことが多いんです。だから、私だったら、きっと飛ばしてしまうだろうなと。そういえば、料理をするシーンで「ていねいに手を洗い」とありますよね。「丁寧」の漢字は使わずに。ほかにも、この漢字も開くんだと思うことがありました。 寺地 「きれい」も開いていますが、「綺麗」は画数が多いからなのか、自分が思う「きれい」にどうしても合わない。ただ単に、その漢字と自分の中のイメージが合わないというだけなんです。私の出身地佐賀県ではごはんは「よそう」ではなく、「つぐ(注ぐ)」と言いますが、それが子どもの時から受け入れられなくて。「つぐ」は液体のイメージなんです。「よそう」という言い方を知ったときは、それだと思いましたが、「ごはんを盛る」と聞いたときは、よりしっくりきましたね(笑)。 ――言葉へのこだわりが子どもの頃からおありだったんですね。 寺地 小説を書くようになって本当に良かったと思います。小説を書いているから今みたいに良いように理解してもらえますけど、日常でそんなこと言い出す人間がいたら面倒くさくてしょうがない。 原田 ですね(笑)。あと、寺地さんの小説には会社や職場が大きなウエイトで出てきますよね。今回は印刷工場ですが、和菓子屋さんやガラス工房など作品ごとに違うけれど、そのどれもがきちんと描かれている。働く場に対してこだわりみたいなものがあるのかなとずっと気になっていました。取材もされているんですか? 寺地 どんな人かを考えるときに、その人がどんな仕事をしているかは大事だと思っています。就いている仕事でその人の感じは随分変わってくると思うので。取材は必ずしもするわけではなく、ベースになっているのは自分が働いていた頃のことや友達から聞いた会社の話です。仕事のことを書くとお仕事小説みたいに期待されてしまうのですが、仕事もするけど、それ以外の生活もあるよね、人間なんだからというところを書きたいと思っています。だからでしょうね、私が原田さんの小説に惹かれるのは。原田さんは人をすごく自然に表現されていると思います。善人でもなく、悪人でもなく、ただそこに生きているという感じで書かれていて、そこが本当に好きです。 原田 私は自分の小説を箱庭っぽいところがあると思っているんです。『古本食堂』の鷹島古書店もそうですが、まず一つの場があって、そこで起こる物語を、映画を見ているような感じで書き取っているという感覚があります。その場の雰囲気を書くのが好きなのかなとも思うし。そうした距離感みたいなものが、人物の描写にも関係しているのかもしれません。 寺地 私の場合、映像があったとしてもくっきりはしていなくて。ぼや~っとしていて消えそうなものをなんとか文字にしようみたいな……。せりふだけ先に来て、ということもありますし。どういう状況でそのせりふが発せられたのかはわからないのですが。 原田 せりふ先行で物語を考えていくこともありますか? 寺地 そういうときもあります。ただ、いつも終わりは決まっていません。わかっていると自分がつまらないですし、決まっている終わりに向けて辻褄を合わせようとしてしまうので、それもやっぱりつまらない。人間って、自分の終わりは知らずに生きているわけですから。 原田 考えていた終わりとは、まったく違う形になることもありますしね。でもこの頃は、私は小説を終わらせるのが苦手なのかなと思うようになりました。終わらせたつもりなのですが、本を出すたびにSNSなどでは続編があるのかなと言われてしまうんです。 寺地 それはずっとこの物語を読んでいたいという気持ちなのでは? 原田 だとしたら有難いですけど。とはいえ、答えが出ていない、全部の問題が終わっていないと思われているのかと考えると、ちょっと複雑で。 寺地 終わらせなくてもいいですよね。 原田 そうなんです。私もすべて終わらせなくてもいいのではと思っているんですけど。