バカ増殖中の日本に知の巨人が警鐘…「精神年齢が幼児の大人」が社会システムを腐らせる絶望的事実
■SNSでの主張は他人の受け売り 【養老】心理学の教科書には、喜怒哀楽が表情でわかると書いてあります。顔には表情筋というのがたくさんあるので、「感情の変化によって、どの筋肉がどのくらい収縮するという客観的な基準があるはずだ」と仮説を立てて徹底的に調べた人がいるんですが、成り立たないんですね。感情というのも社会的かつ相対的なもので、客観的な定義が存在するわけではありません。 【内田】感情表現は明らかに社会構築的ですね。学生を見ていると感情表現が僕らの頃に比べると明らかに過剰なのがわかる。同意を示すときに「そうだね」と頷くのではなく、ピョンピョン跳ねてハイタッチする。疲れるだろうと思うんですけれども(笑)、それくらい過剰に感情表現しないとコミュニケーションが成立しないらしい。言葉の抑揚や表情の変化からメッセージを読み取る能力が著しく低下している。 【養老】アメリカ式へ寄ったんですね。 【内田】アメリカのように出自が異なる集団間では、わずかな発声や表情の変化では意味が通じない。だから、どうしてもオーバーアクションになる。でも、日本人がそれを真似ることはないんですよ。それと同じように、話を簡単にする圧力も感じます。複雑な話を嫌う。メディアはコメントを一言でまとめることをうるさく求めますね。 【養老】僕もそう感じます。コメントを求められたとき、本当は「そんなこと、一言で言えるわけないだろ。バカもん!」と答えたい。僕が大学でいつも怒っていたのは「先生、やさしく説明してください」と言われることです。問題が難しいんだから、説明だって難しくなる。 【内田】SNSでも、何か一言言わないと気が済まないという人が多いですね。どうして、そんなに口をはさみたいのかな。あれはもしかすると、自分が多数派に属していることを確認したいからじゃないかと思うんです。マジョリティに属していることを承認してもらわないと気持ちが落ち着かない。 【養老】もはや、自己表現という病じゃないでしょうか。 【内田】いや、あれは自己表現というのではないと思いますよ。だって、言っている中身は他の人の受け売りや、定型句の繰り返しなんですから。「自分は『その他大勢』である」ということを声高に主張するのを「自己表現」とは呼ばないでしょう。あの人たちにとって、たぶんコンテンツはどうでもいいんです。メンバーの頭数が多い言論集団に参加していたいだけなんです。ネトウヨやヘイトが隆盛するのも、あそこにいくと、みんな同じ言葉づかいをするからでしょう。あそこにいれば個体識別されない。 集団に溶け込んで、匿名性を獲得したいという気持ちはわかるんですよ。頭数の多い集団に属していると楽ですから。どんな乱暴な、非論理的なことを言っても、自分の同族の誰かがエビデンスを示したり、理路整然と論証してくれることを「当てにできる」から。だから、多数派に属していると、どんどん言葉づかいが粗雑になる。テレビのコメンテーターで暴論を吐く人たちは「俺のバックには、同じ意見の人間が何十万、何百万もいる」と信じているからあんな言葉づかいができるんです。養老先生や僕のような「こんな変なことを言うのは自分しかいない」というような少数派の人間は、誰かが意見をもっと上手に代弁してくれることをまず当てにできません。だから、情理を尽くして語るしかない。道行く人の袖を掴んで、「ちょっと僕の話を聞いてくれませんか」とお願いするわけですから、どうしても話がくどく、長くなる(笑)。 【養老】調べ物でも何でもスマホに頼って、他人と同じ結果を得て満足するのと、同じ構図でしょう。楽なほうが気持ちよくて面倒くさいのは嫌だという、単純化の方向へ流れているんです。 【内田】「論破」ということをありがたがる風潮もよくないですね。だって、相手をうっかり論破したりすると、その成功体験が後々災厄をもたらすでしょう。後になって自分が言ったことが間違っていたとわかっても、相手に傷を負わせたという事実は変えられない。今さら謝っても仕方がない。となると、論破した人は「私は一度も間違ったことを言っていない」という物語にしがみつくようになる。でも、人間は自分の誤りを間断なく修正しながら成長するものです。うっかり論破なんかしたら、成長を自分で止めることになる。自分に対する呪いですよ。