「これまで助けられっぱなしだった自分たちが、ようやく人に肩を貸せるようになった」――新生・純烈が温める思い
4年前、母との別れをきっかけに岩永は自分を劇的に変えた。それまでは何をやるにしてもこだわりを持ち自身に線引きしていたが、大事な部分を守りつつ、ニュートラルでいられるようになった。 「僕は役者時代、ファンクラブもなかったしファンイベントも正直、やりたくなかったんです。言い方は悪いですけど媚びたくないと。僕が好きだった昭和の役者やアイドルは、普段何をやっているんだろうという、ミステリアスなところがカッコいいと思ってきた世代なんです。 でも純烈って、それと真逆じゃないですか。入ったからにはそういう気持ちはいったん置いて、ファンを喜ばせ、家族や友人に喜んでもらうほうに切り替えはできています。その意味でも小田井さんには本当にいい背中を見せていただいたと思います」
小田井から岩永へ受け継がれたもの
岩永だけでなく、関わる者たちにその背中を見せ続けてきた小田井にとって、ファンの前でステージに立つ最後のディナーショーが12月26日、東京で催された。何人かの純子さんに話を聞くと、ほとんどがこのような言葉を最大の功労者に送っていた。 「よく15年間、リーダーに付き合ってくれました。酒井さんが足を折ったとき(2007年)、もう表舞台で見ることはできないだろうと思っていたけど、もう一度舞台の上に立つ機動力になってくれて、テレビを見たら純烈が出てくる世界をこんなに長く味わえた。それは涼平さんの支えがあったからです」
最年長でありながら、誰よりもダイナミックに振り付けを踊り、MCへ入るごとに舞台袖で汗を拭き続けてきた小田井。その“楽しませる”という純烈最大の原動力は、どうやら岩永に受け継がれたようだ――。
小田井「それぞれの道をいっているんだな」
ソロとなった小田井は念願だったロケ番組のレギュラーも決まり、忙しい日々が続いている。 たまたま地方でホテルのテレビをつけると、自分のいない純烈が歌っていた。そこで「それぞれの道をいっているんだな」と実感が持てたという。 これ以上ないと思えるほど美しい流れのなかで小田井は巣立っていった。卒業発表から岩永デビューまでの9カ月間は、酒井一圭のプロデュース作品として、純烈史上最高傑作といっていい。 そして新生・純烈もすでに6度目の紅白に向けて疾り出している。2024年の日本武道館進出も目指す。