名将オシム氏逝去…数々の語録になかった言葉…スポーツ表現に使われる“戦争用語”を忌み嫌った
東京五輪で初来日した1964年に、近代的な街並みを見せる東京に心を震わせたオシム氏は親日家になった。パルチザン・ベオグラードを率いて2度目の来日を果たした1991年7月には、国際親善試合で対戦したプロ化直前の日本代表の進歩に驚かされた。 日本サッカー界の変化を目の当たりした一人として、代表監督の初陣となった2006年8月のトリニダード・トバゴ代表戦前にこんな言葉を残している。 「敗北から最も学んでいるのは日本だと、世界の人たちは考えている。これは経済の話だが、サッカーについても日本は敗北から学ぶべきことはたくさんある」 大きな期待を背負いながら一敗地にまみれた、ジーコ監督に率いられたドイツワールドカップを「最良の教師」と位置づけたオシム氏はさらにこう続けた。 「(第二次世界大戦の)敗北を乗り越えて、日本は先進国の仲間入りを果たした。サッカーでもなぜそれができないのか」 市原時代から掲げた「考えて走るサッカー」だけではない。オシム語録で有名になった「水を運ぶ人」も「ポリバレント」も、いまでは日本サッカー界の普遍的なものになっている。一人の人間として平和を強く望んだ思いは、ロシアによるウクライナ侵攻のニュースが連日のように届くいまでは、その尊さが伝わってくる。 自身が目指した南アフリカワールドカップへの挑戦は、突然襲われた病魔によって道半ばで閉ざされた。バトンを継いだ岡田武史監督のもとで果たしたベスト16が、2002年の日韓共催大会、2018年のロシア大会と並ぶ日本代表の最高位となっている。 強面で時に禅問答のようなやり取りをメディアとの間で交わしたオシム氏だが、ポロッとジョークをはさむことも忘れなかった。例えば就任間もないころに、代表チームにオートマティズムがないのでは、と問われた直後にはこう返している。 「結婚して40年になるが、まだ家内との間にオートマティズムがない。数回練習しただけの選手たちの間に、どうしてオートマティズムが生まれるだろうか」 そのアシマさんら最愛の家族に看取られ、オシム氏は波乱万丈の生涯を閉じた。今後は成長の余地があると信じて疑わなかった日本代表がカタールの地で掲げるベスト8への挑戦を、厳しくも温かいエールを送りながら空の上から見守ってくれるはずだ。 (文責・藤江直人/スポーツライター)