名将オシム氏逝去…数々の語録になかった言葉…スポーツ表現に使われる“戦争用語”を忌み嫌った
代表通算28試合に出場し、デビュー戦を含め、そのうち20試合をオシムジャパンで経験した鈴木氏は、自身のツイッター(@keita13suzuki)で感謝の思いを捧げた。 「私にとって、サッカーというものが何かを教えていただき、その後の人生にも大きな影響を与えてくださった方です」 多様性を意味するポリバレントを、サッカー界に広めたのもオシム氏だった。必要に応じて複数のポジションでプレーできる能力を、オシム氏は指揮を執って5試合目、2006年10月のガーナ代表との国際親善試合の直前にこう表現した。 「ポリバレントとは化学の言葉だ。化学的なサッカーというのも悪くはないだろう」 オシムジャパンでセンターバック、ボランチ、サイドバックを担い、ポリバレントの象徴的な存在になったのは阿部勇樹だった。21歳だった2003年にオシム氏からキャプテンを任され、精神的にも大きな成長を遂げた市原時代を懐かしみながら、阿部氏もまた自身のツイッター(@daikichi22abe)で哀悼の意を捧げている。 「まだまだこどもだった、自分を鍛えてくれた恩師!今の自分があるのは、オシム監督の指導のおかげです!またお会いにいって、サッカーの話をいっぱいしたかった」 旧ユーゴスラビア(ボスニア・ヘルツェゴビナ)のサラエボで生まれたオシム氏は、現役時代は大型フォワードとして活躍。1964年の東京五輪にはユーゴスラビア代表として来日し、日本代表戦で2ゴールをあげた。引退後は指導者の道を歩み、1990年のイタリアワールドカップではユーゴスラビアをベスト8へ導いた。 しかし、直後からオシム氏の人生は政治と戦争に翻弄された。 旧ユーゴスラビアからの独立を巡り、イスラム系、セルビア系、クロアチア系の3民族が激しく対立する内戦が勃発。デートン和平合意が調印された1995年12月までの約3年半で犠牲者は数十万人にのぼったとされ、オシム氏自身も戦禍のサラエボに残した、夫人のアシマさんや長女と離ればなれの生活を2年半も余儀なくされた。 忌み嫌う記憶が蘇ってくるからか。戦争を連想させる言葉をオシム氏は嫌った。敵地でのインド代表戦を控えた、2006年10月の記者会見だった。 「フットボールは美しいゲームだ。だからストラテジー(戦略)というより、タクティクス(戦術)という言葉を使うべきだろう。何よりもストラテジーは戦争用語であり、フットボールにはふさわしくない」 敗戦国である日本に対して、特別な思いも抱いていた。