【異色対談】泉房穂が東大時代の「恩師」と40年ぶりに会った…「80年代の駒場で〈第2次全共闘〉をやろうと思っていました」
全共闘回顧ブームと変革への思い
泉まずは、菅さんに二つお詫びをせなアカンのですよ。一つは、大切な本をお借りしながらなくしてしまいました。 菅何を貸したんでしたっけ。 泉専門書だったと思います。一度お手紙で「あの本は?」と言われたんですけど、その手紙を受け取ったまま、当時私はバックパッカーで放浪の旅に出てましてね。バタバタしているうちに探しきれず、40年間返さないまま、今に至ってしまったことのお詫びです。 もう一つは、せっかく東大でご講演いただいたんですけど集客ミスで、大教室がガラガラの時があって。人数が少ない中でもちゃんとご講演いただいて、あれは本当にお世話になったなと思って。 菅講演の記憶は薄いんですが、駒場の東大キャンパスに出かけていって授業をやったことはよく覚えています。何人か学生が集まってリクエストすると、半年ひとこま1単位で、外部の講師を招けるという制度があって、私の講座をセットしたのはあなたでしょう。 泉そうです。私は1982年入学なんですけど、当時は70年安保を体験された方々が出版社に入られて、全共闘ブームが一時起こったんです。生協の本屋さんには、『全共闘グラフィティ』(高沢皓司、新泉社、1984年)など十数年前の全共闘の写真集が並んでる時期でした。 菅私が『全学連』を出したところでした。 泉その『全学連』がかなり売れていて、当時は『吉本隆明論』(第三文明社、74年)をはじめ、菅さんが出された本は全部買って読んでました。私は本を読んで感動すると連絡したくなるんです。大学に入って18歳でしたけど「この人だ」と思ったんですよ。 お手紙を書いて、ご連絡させていただいて、最初は「単発の講演に来てください」と。それが大好評だったので、仲間たちと「1回だけじゃなくて連続講座をしようよ」。当時大学講座に学生枠があって、私が大学と話をして、学生主導のゼミみたいな授業にしたんです。 菅確か82年の後期と83年の前記、週1回づつ、それぞれ計10回くらいずつ講義した記憶があります。高木仁三郎さんの授業もありましたよね。 泉はい。「自分が世の中を変えたい」と思っていた立場としては、少し前の全共闘ブームも、過去の話じゃなくて、これからの話、現在進行形で鼓舞していただきたいと思っていました。菅さんは当時たくさん本を出されておられましたし、リアリティのある話をしていただいて、聞いた者として「がんばろう」と思うようなお話でしたね。