【異色対談】泉房穂が東大時代の「恩師」と40年ぶりに会った…「80年代の駒場で〈第2次全共闘〉をやろうと思っていました」
革マル派の妨害で講義が潰された
菅客観的な事実とか歴史を語るというよりは、講義の形を借りたアジテーションみたいなところがありましたね。受講者は1期目はちゃんと来ていて、それなりに成立していましたが、2期目は途中から党派の妨害が入った。革マル派が何人かで議論を吹っかけて授業を潰しにやってきて、それとやり取りしてるうちに、一般の受講者は白けてこなくなるし、授業ができなくなることもありました。往事茫々ですね。 泉まだ名残があった時代やからね。早稲田は革マル派でしたけど、東大もまだ革マル派が残ってましたからね。私はというと、当時駒場寮委員長でした。大学1年でいきなり立候補して、選挙で勝ったんです。 菅寮委員長を取ったわけ? 泉取ったんです。私は選挙は強いんですよ。小学校の委員長あたりから選挙はほぼすべて勝ってきました。選挙で下馬評を覆すのは得意なんです。18歳で東大に入った時もそうでした。駒場寮委員長は、68年頃にフロント(統一社会主義同盟)から共産党系の民青(日本民主青年同盟)に変わり、その後15年続いてきた共産党政権を選挙で勝って私がひっくり返したんです。当時「第2次全共闘」と勝手に名乗っていました。そういう時代に、一種理論武装というか応援の形で菅さんにお越しいただいたという経緯でしたね。講座を聞かせて頂いただけでなく、自由学校にまでお誘いいただいた。明石の田舎生まれの漁師のせがれが都会に出てきて、社会というものを知る最初の接点でしたね。 菅物知りになるには、あのころの自由学校は良かったですよね。私はたしか、PARCの運営委員になったばかりで、自由学校担当でした。 泉しかもあれは単なるお勉強だけじゃなくて、あそこにはいっぱいチラシがありました。 菅事務局とその周辺に活動家がいて、「集会があるからおいで」とかいう誘いもあるしね。 国際連帯運動もフィリピンとか、日韓とか、アジア太平洋関係だけでなくて、そのほかに安保問題、労働運動、障害者解放運動、フェミニズム、水俣、狭山、三里塚、主なイシューの運動の関係者がみんないた。 泉そうなんですよ。そこで集会のビラをいっぱいもらって、集会に行きまくってました。かわいいデモから激しいデモまで参加させていただいて、勉強になりましたね。 《つづきを読む》泉房穂が東大で「全学スト」委員長だったときの記憶…幻のあの時代を語る
菅 孝行、泉 房穂