【異色対談】泉房穂が東大時代の「恩師」と40年ぶりに会った…「80年代の駒場で〈第2次全共闘〉をやろうと思っていました」
PARCは社会運動の梁山泊だった
泉房穂いやいやホンマにもうご無沙汰してました。学生時代は本当にお世話になりました。菅さんからPARC(アジア太平洋資料センター)の自由学校にお声がけいただいて、私は世の中に目覚めたんです。自由学校は、ちょうどそのころ始まったんちゃいますかね。 菅孝行PARC創立はかなり前ですが(1973年設立)、自由学校はあのころ(80年代)が一番受講者も多く、講座内容も充実していたんじゃないですかね。 泉そうでしたよね。おかげでいろんなお話をお聞かせいただいた。東大の授業はつまらなかったですけど、あそこは楽しかったですねえ。社会とつながってる感じがしました。 菅アジア太平洋資料センターというのは、第三世界の問題を中心に据えた国際的な連帯運動の情報センターでした。もともとは小田実さんが作った英文雑誌の『AMPO』から発展しています。運動の性格上、超党派でしたが、運動体の成り立ちの中心的な文化人は、べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)系の人が多かったです。べ平連を支えていたのは、共労党(共産主義労働者党)という、翻訳家で予備校講師だった吉川勇一さんとか、作家で評論家のいいだももさんとかが所属されていた党派です。発足時からPARCのコアは武藤一羊さんです。 政治的にその系譜とは違うところで中心にいたのは、国際問題評論家の北沢洋子さん、人類学者の鶴見良行さんです。ラディカルなカトリックのシスターの弘田しずえという方をよく覚えています。非正規労働運動の先駆けとも言える、全国一般労組の渡辺勉さんもいたなあ。 自由学校だけではなくて、本来の国際連帯運動関連のいろんな部門の活動があったので、ダグラス・ラミスさんとか、吉川さん、福富節男さん、梅林宏道さん、井上澄夫さんなどなど多士済々でした。松井やよりさん、内海愛子さん、金井淑子さん、加納実紀代さんなど女性の理論家、ジャーナリスト、活動家も大勢いました。事務局に加地永都子さんがいた。 泉たいへんな顔ぶれでしたよね。 菅「PARC」はアジア太平洋(Pacific Asia)リソース・センター(Resource Center)の略ですが、その中で教育部門というか、市民の学習部門を作ったんですね。それが「自由学校」で、今でも続いています。だいぶ姿が変わってしまっていますけど(笑)。