「ものすごい誹謗中傷だった」リポーター・阿部祐二、台風やらせ疑惑の裏側と天職の原点
生涯のパートナーとの出会い
そんな役者時代に、のちに妻となる阿部(旧姓・礒村)まさ子さんとの出会いが訪れる。当時、人気プロゴルファーだったまさ子さん。始まりはスポーツジムだった。 「ちょうど『特捜最前線』でファンとのハワイ旅行があって、ゴルフコンペで優勝したんです。それでルンルンで帰ってきて、ジムで『今度一緒にゴルフやらない?』なんて声かけて。プロゴルファーだと知らなかったから。家内は『いいですねー』とか言って、職業を明かさないわけ。 あとでトレーナーが教えてくれて、慌てて謝りに行ったら、『いいんですよ。よかったら今度、試合を見にきてくれません?』って誘ってくれて。俺らしいでしょ、ちょっとコンペで優勝したくらいで“教えてやるよ”なんて。だからダメなんだよなあ」 まさ子さんは、当時のことをこう振り返る。 「話しかけられる前から鏡越しに私を見ていて。たぶんシャイだったんですね。あまり意識してなかったんですけど、試合に応援に来てくれたとき、大勢の人がいる中で彼だけパッと浮かび上がっているように見えて、“この人は特別な人になるのかな”と」(まさ子さん) '88年、二谷英明さん・白川由美さんの仲人で、ふたりは結婚式を挙げた。このとき、阿部は家庭教師を派遣する有限会社を立ち上げる。大学時代に始めた家庭教師業を、役者になってからも“この仕事は大変だから収入源をほかに持っておけ”とアドバイスを受け、続けていた。結婚を機に、自分も教えつつほかの教師も雇う会社組織にしたのだ。 「結婚するから収入を安定させるために。バブルの時代で、ものすごく成功したよ。教えた子たちが有名校に入ってくれて、ギャラも上がってね」
リポーター仕事との出合い
“これは俺が続けていく仕事ではないなあ”と思いながらも続けていた役者業。そこに転機が訪れる。35歳のとき、リポーターをやらないかと声をかけられたのだ。やりたいと言ったこともなく、まさに青天の霹靂。だが、“こういう仕事、昔やろうと思ったな”と、新聞社の就職試験を受けたことを思い出す。 「なぜ声をかけられたのか、今でもわからないんですけど。テレビ朝日の『ニュースステーション』をやっていた方が、『やってもらいたいけど、うちでは難しそうだからTBSを紹介する』と。それでTBSの『ザ・フレッシュ!』という情報番組で初めてリポーターをやったんです」 このとき、リポーターの仕事に集中するため、家庭教師の派遣会社を畳んだ。まさ子さんは、「挑戦してみたら?」と背中を押してくれたという。 「家内には感謝しかないよね。会社の収入が安定していたのに、全部捨ててリポーターをやるなんて普通は不安でしょ。しかもそのとき、娘(桃子さん)がお腹の中にいたし。よくやらせてくれたと今でも思います」 だが、まさ子さんには不安はなかった。 「それまでもいろんなことを突破してきた人だから、いい転機かなと思ったんです。また私が妊娠中もゴルフを教える仕事をしていたので、金銭面もなんとかなるだろうと」(まさ子さん) '94年、36歳でのリポーターデビュー。最初は事件ではなく、結婚直前の女性に取材するという特集企画だった。そこに『つくば妻子殺害事件』が起き、初めて事件リポーターとして中継を担当することに。 「これはひどいリポートだった! 捜査員や鑑識の人が動いているのに何の言葉も出てこなくて、庭にゴールデンレトリバーがいたから『ゴールデンレトリバーがいます!』とだけ叫んでいた」 そんな失敗にもかかわらず、チーフプロデューサーが使い続けてくれたおかげで場数を踏んでいく。そしてTBSでの番組が終了すると、日本テレビ『ルックルックこんにちは』へ。時は20世紀末。阪神・淡路大震災やオウム真理教事件、神戸連続児童殺傷事件など、日本中で大事件が立て続けに起きていた。 ベテランリポーターたちが全員取材に出払った後、阿部しか残っていない状況で事件が起これば、新人の彼が行くことになる。 「それで、どんどん大きな事件をメインでやるようになっていきました。名うてのリポーターがいるのに。なぜかというと、俺が誰より早く現場に行くから」 もちろん、それだけでメインになれるわけはない。この仕事を始めてから生まれた“されどリポーターと言わせてみせる”という目標を実現するため、すさまじい勉強を始めたのだ。 「情景描写の訓練のためにボキャブラリーを増やしたくて、本を読みまくったり。島崎藤村の『千曲川のスケッチ』はとてもためになりましたね」