人とは自由意志などない、遺伝子や脳の操り人形なのだろうか?
人に自由意志はあるのか? 誰もが一度は考えたことがあるこの疑問には、長く深い歴史がある。 結局、遺伝は私たちの人生をどの程度決めるのか ※本記事は『自由意志の向こう側 決定論をめぐる哲学史』(木島泰三)の抜粋です。
ヒントは「決定論」
科学が進歩していいことは無数にあるが、いいことばかりではないかもしれない。たとえば科学の進歩により、知らなくともいいことまで分かるようになってしまう、というのは、少なくとも愉快なことではない、と思う。 生物学方面から出てきた、「あなたは遺伝子の操り人形かもしれない」という考え方がある。「遺伝子」に「利己的」という形容詞がついて、「あなたは利己的遺伝子の操り人形かもしれない」と言われるときもある。 これはいろいろな意味で人の不安をかき立てる思想で、詳しく知らないが気になっている、という人は多いだろうし、詳しく知らないからこそ気になる、という人も多いのではないかと思う。 これに近い方面から出てきた別の考え方に「あなたは脳の操り人形かもしれない」というのもある。 ……え? だって僕が自分のことを自分で決めて自分で動いている、ということなんじゃないの? と思う人がいるかもしれないが、話はそんなにすんなりいかない。脳の大部分の働きは、「僕」や「あなた」が自分自身を感じ取っている、意識的な思考の外で進んでいる。 さらに言えば、僕らが意識の中で何に気づき、何を考えるかを決めているのは、こういう脳の無意識的な過程だとも考えられる。となれば、脳(の無意識的過程)が僕やあなたの意識を操っているかもしれない、という可能性を頭から退けるのは難しそうだ。 これもまた最近ちらほら耳にする話として、詳しく知らないけど、あるいは、詳しく知らないからこそ、気になる、という人が多いのではないだろうか。 本書の一つの意図は、たとえばこういう不安や疑問に正面から、そして哲学の観点から答えることにある。「利己的遺伝子に操られるあなた」や「脳に操られるあなた」という思想がどういう思想なのかは、本書のずっと後で詳しく説明する。 だが、そこに行く前に、本書は長い道のりをたどる。というのも、これらの思想は、長い歴史をもつ思想の最新の形態だからだ。なので、それを生み出すに至った過去の思想を踏まえておくことが、結局は一番の近道であり、まっとうなアプローチだと僕は思うのだ。 ここで「長い歴史をもつ思想」と言った思想は、「決定論(determinism)」と呼ばれている。したがって本書はまず決定論の「これまで」を考え、そこから決定論の「今」と「これから」を考えていく本だということになる。(続く) レビューを確認する 第2回では、人に自由意志があるのかを読み解くうえで重要な「決定論」について詳しく解説する。決定論は、大まかにふたつの種類に分けることができるという。
Taizo Kijima