「円安が実質賃金の上昇に歯止め」「日本はずっと安売りバーゲン」石破政権が植田日銀総裁の背中を押すべき理由
※本稿は、雑誌『プレジデント』(2024年12月13日号)の一部を再編集したものです。 【この記事の画像を見る】 ■自分たちの権限拡大を「国民のため」と宣伝する 日本初の女性首相が誕生するのかと、自民党総裁選を見守っていたが、大接戦の末、石破茂候補が高市早苗候補を制し首相の座を獲得した。 2001~03年にかけて、内閣府の経済社会総合研究所所長を務めていた私は、当時新進の政治家で、現石破内閣で中心的な立場にある閣僚数人と議論を交わす機会があった。 その際の対話で印象に残っているのは、私が「金融政策が緊縮すぎて日本の産業界を苦しめている」と述べると、それぞれから「金融政策や財政政策は専門的で難しいので日本銀行や財務省の専門家に聞くことにしております」と言われたことだ。言外に「浜田さんの意見は日本銀行や財務省の専門家の意見と違うので従えません」という意味合いだった。 たしかに、財務省は財政、経済産業省は産業、そして日本銀行は金融と、それぞれの分野に優れた人材が集まっており、過去の経験や知識も豊富だ。しかしながら、経済政策に関しては、必ずしも専門家に任せておけば国民のためになる政策が実行されるとは限らない。 なぜなら、自分の省庁の権限や権威を拡大するような政策を選ぶ可能性があり、さらにそのような政策がまるで国民経済全体にとって望ましい選択であるかのように宣伝し、実行してしまうことも多いからである。 ■なぜアベノミクスは日本経済に必要だったのか 戦後の日本経済は、生産価格で比較した場合、円が割安な状態の「円安経済」で推移した。そのおかげで、奇跡の経済成長を成し遂げたのだが、そういった日本に有利な状況を防ぐため、1985年に米英独仏は日本をさそってニューヨークのプラザホテルで「プラザ合意」を結び、日本の経済成長独走態勢は終わった。 そして、バブルが生じたとき引き締めが必要な場合は別とすると、ほとんどの期間で、日本の金融政策はプラザ合意の趣旨に添いすぎる引き締めの方向を堅持した。 89年に就任した三重野(みえの)康(やすし)日銀総裁は、「平成の鬼平」と呼ばれ、バブル退治に強力な手腕を発揮した。それから30年あまりの間、94~98年に在任した松下康雄(やすお)総裁を除くと、日銀出身の総裁が続き、日銀は円高を保ちインフレを起こさない守り神であることを誇っていた。速水(はやみ)優(まさる)総裁が著書で述べるように、「尊敬される円」が金融政策の目標だった。 三重野総裁から白川(しらかわ)方明(まさあき)総裁までの日銀各総裁は、任期の前半で緩和にも意を払った福井(ふくい)俊彦(としひこ)総裁を除き、金融引き締めとそれに結びつく円高を志向する総裁であった。 「専門家に聞くのがいい」という政治家が以上のようなバイアスを持つ中央銀行の意見を聴いた結果が、安倍晋三政権が誕生する前の「デフレと沈滞の30年間」だったのである。 注意したいのは、為替変動制の下で為替介入権は財務省にあるが、為替介入は一時しのぎにすぎず、政策として通貨の価値に本来影響するのは、日米の相対的貨幣比率を変える金融政策だ。とくに過度な引き締め政策を採用すれば、国民経済はデフレに苦しむことになり、これがアベノミクス登場(2012年末)以前の日本経済の姿だった。