明智光秀の『最大の誤算]は本能寺の変後、織田信長父子の遺体を発見できなかったこと⁉
明智光秀といえば、織田信長を討ち死に追い込みながら、すぐに秀吉に討ち果たされてしまった、武将であった。天下まで手をかけそうになりながら、謎、光秀は敗れてしまったのだろうか? ■信長と信忠の首をさらせず諸将が疑心暗鬼となる 明智光秀が斎藤利三(さいとうとしみつ)ら重臣たちに織田信長を討つ決意を表明したのがいつのことなのかについては諸説ある。天正10年(1582)6月1日の申(さる)の刻というから午後3時から5時ごろ、家中の侍大将や主だった物頭(ものがしら)を集めて出陣の準備にとりかかるよう命じているので、その少し前と思われる。 重臣メンバーは、斎藤利三のほか、女婿・明智秀満(あけちひでみつ)、明智光忠(みつただ)、溝尾庄兵衛(みぞおしょうべえ)、藤田伝五(ふじたでんご)の5人といわれている。この5人が、光秀の思いをどこまで理解していたかはわからない。光秀謀反の理由については今もって〝日本史最大のミステリー〟などといわれていることからも明らかである。信長が朝廷に対してあれこれ口出しをするのを「信長非道」とみていたかもしれない。 夜になって亀山城を1万3000の兵で出陣し、途中、篠八幡宮で戦勝祈願をし、午前4時ごろと思われるが、京の本能寺を包囲し、夜明けと共に攻撃をはじめている。 このとき、本能寺にいた信長の家臣は100人から150人程度だったといわれている。信憑性の高いことで知られる『当代記(とうだいき)』は「小姓衆百五六十騎」としている。『信長公記(しんちょうこうき)』は、何人いたかの記述はなく、御厩(みまや)で24人、御殿(ごてん)で26人が討ち死にし、合わせて50人が討ち死にしたと記している。信長も、当然、そこで討ち死にしたはずである。 本能寺が明智軍によって包囲されたことを知った信忠は、宿所の妙覚寺(みょうかくじ)を出て本能寺に向かった。ところが圧倒的多数の明智勢に阻まれ、本能寺には行けず、近くの二条御所に入って防戦することになった。しかし、多勢に無勢で、信忠も自刃したと思われる。「思われる」とあいまいな書き方をしたのは、信長と同じく信忠の首も見つからなかったからである。 ■遺骸が見つからないため秀吉の戦略に利用される 本能寺襲撃を成功させながら、肝心な信長・信忠の首を手にしなかったことは光秀の誤算だった。粟田口(あわたぐち)あるいは三条河原に2人の首を晒していれば、事態は大きく変わったと考えられるからである。遺体を発見できなかったことで、「実は信長はまだ生きているのではないか」と周りが考えて当然である。 光秀が信長・信忠の首を手にすることができなかったことは同時代史料からも明らかである。たとえばルイス・フロイスがイエズス会総長に送った1582年の『イエズス会年報』追加には、「或人は彼が切腹したと言い、他の人は宮殿に火を放って死んだと言う。しかし、我等の知り得たところは、諸人がその声でなく、その名を聞いたのみで戦慄(せんりつ)した人が、毛髪も残らず塵(ちり)と灰に帰したことである」と記されている。実際、その年の10月15日、羽柴秀吉が養子の秀勝を喪主として葬儀を行った際、秀吉は信長の遺骸がないため、苦肉の策として信長の木像二体をつくり、一体を焼いて、その灰を遺骨代わりにしている。 そして、この光秀が信長・信忠の首を手にすることができなかったことを逆手に取って利用したのが秀吉だった。秀吉は信長家臣の中川清秀(なかがわきよひで)を味方につけるため、「信長様は難を逃れて健在である」とし、「一緒に光秀を討とう」と呼びかけている(「梅林寺文書」)。 監修・執筆/小和田哲男 歴史人2024年7月号『敗者の日本史』より
歴史人編集部