<無罪確定>袴田巌さんの姉・ひで子さんが語る生い立ち「終戦までに4千人近く落命した浜松市で過ごして。おなかがすいたらカボチャかサツマイモしかなかったために今も…」
◆浜名湖の自然に育つ ここで袴田ひで子さん・巖さん姉弟の生い立ちを記す。 ひで子さんは1933(昭和8)年2月、巖さんは1936(昭和11)年3月、浜名湖のほとりの雄踏(ゆうとう)で、木材会社に勤める父・庄市さん、母・ともさんの間に生まれた。ひで子さんは6人兄弟の5番目の三女、巖さんは三男で末っ子だ。 ひで子さんは朝日が昇る頃に生まれたことから、庄市さんは「縁起がいい」と喜び、戸籍は「日が出る」の意味から「ひで子」として届けられている。 ひで子さんは学校へ通う頃から、子役から後に『二十四の瞳』などに主演した大女優・高峰秀子の愛称と同じ「デコちゃん」と呼ばれていた。 母からは頼られ、バスで行く遠方の買い物なども頼まれた。子供たちの遊びに入っていけない内気な級友の手を取って引っ張ってきて参加させる、子供の頃から「姉御肌」だった。 末の2人は仲が良く、ひで子さんは弟に学校の勉強を教えてやったりした。幼い巖さんは、どこへ行くにも「頼れる姉」にくっついて遊んだ。 休みの日は一家で浜名湖に繰り出し、船大工の腕もある庄市さんが作った木の小舟を湖面に浮かべた。「兄たちが沖で魚を釣り、私と巖はアサリを獲ったりした。ボラなんかがおいしかった」とひで子さん。
◆兄たちから学び、泳力を身につけた小学生の巌さん 自給自足ができ、貧乏だったが栄養不足にはならなかった。夏休みには浜名湖で遠泳をやった。小学生になった巖さんは、兄の茂治さんや實さんに必死についていき、泳力も身に付ける。 浜松市は「フジヤマのトビウオ」古橋廣之進(1928~2008)の故郷。ひで子さんや巖さんが通った雄踏小学校の出身で、浜名湖の遠泳で鍛えた古橋は中学校から卓越した泳力で有名になる。 戦時色が強まり学徒動員され砲弾工場で作業中、手の指を切断するが、戦後、日本大学に進学し競技に復帰すると破格の活躍を見せる。 1948(昭和23)年のロサンゼルス五輪に日本は参加できなかったが、同時に開催された日本選手権で古橋は、400、800、1500メートルの3種目で、金メダリストを上回る世界記録を打ち立てた。 全米選手権にも参加し、米国選手を破って次々と世界記録を残し、米国の新聞が「フジヤマのトビウオ」と命名した。体格に勝る米国選手に勝つ勇姿は、敗戦に沈む日本人を勇気づけた。 ひで子さんは「古橋さんは長兄の茂治と雄踏小学校の同級生でした。まだ有名になる前、学校に来たのを見ましたよ」と振り返る。
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