西岡剛のドラフト1位指名に尽力、新庄剛志獲得をめぐるトラブル…「ボビー・バレンタインの逆鱗に触れた男」が証言する「ロッテ編成部長時代のウラ事情」
「西岡は日本だけで終わる選手ではない」
こうして、ドラフト会議の1カ月前に広野は奈良に向かい、森本と西岡の両親と会ったのだ。場所は、森本が指定したうどん屋だった。ここで、広野は両親と森本へ2つの宣言をする。 「私は西岡は日本だけで終わる選手ではないと思っています。アメリカで彼を内野手として成功させる。そこまで考えて彼を取ります。それと、私はもう60歳近いから、いつ編成を辞めるかわかりません。でもスカウトの松本はまだまだおります。20年はいますから、安心してうちに入れてください」 これで、完全にロッテの単独1位指名が決定した。西岡は、千葉ロッテに入団するとゴールデングラブ賞、ベストナイン、首位打者、最多安打などのタイトルを獲得し、千葉ロッテのAクラス入りと日本一に大きく貢献。そして、広野が言う通り2011年からはアメリカに渡るなど球界を代表する選手へと成長したのだった。
新庄剛志獲得に動き出す
広野の最後の大仕事はボビー・バレンタインの招聘である。千葉ロッテが4位で終わった2003(平成15)年オフ。解任された山本功児監督の後継として、千葉ロッテのオーナー代行だった重光昭夫が指名したのがバレンタインだった。 バレンタインは1995年にも千葉ロッテを率いて2位に導いた。この実績に、オーナーはロッテ再建を懸けたのだろう。 このとき、ホセ・フェルナンデスの視察のため、すでにアメリカ行きが決まっていた広野は彼の視察と同時にバレンタインにもオファーをかけたのである。当時、メッツの監督を解任され、解説者をしていたバレンタインは日本からのオファーをたいそう喜んだ。そして、すぐに応諾すると秋季練習からチームに合流したのである。 しかし、このバレンタイン招聘が、広野にとって不運の始まりだった。バレンタインは来日してすぐに、新庄剛志の獲得を広野ら編成に要請する。 当時、新庄はニューヨーク・メッツ傘下のマイナーをノンテンダーFAとなり、移籍先のオファーを待っていた。バレンタインはメッツの監督時代に新庄とプレーしていたことから、彼の獲得を迫ったという。 バレンタインの要請で広野は新庄獲得に動き出す。まず、広野は新庄が残すであろう成績を計算した。 「打率は2割7分、ホームランは15本、盗塁15くらいはできるだろうと。チームを引っ張るほどの力はもうないけど、守りはいいから、獲得してもいいかなと思ってたんですわ」 ただ、新庄の身辺調査を進めると、球団にとって好ましくない人脈が出てきた。獲得するにはリスクがあると感じた広野は、川北智一球団代表に報告し、オーナー代行の重光の決裁を待った。 「そんなことならやめろ。うちにそんな選手は必要ない」 この重光の返答を川北代表から受け取った広野は、「バレンタインは承知しているのですね?」と念押しした。 「高石(昂司=バレンタインの通訳)に話をしているから大丈夫だ」という代表の言葉を経て、広野は新庄サイドへ連絡を入れ、千葉ロッテが撤退することを伝達したのである。新庄サイドは「わかりました。それでは北海道日本ハム移籍という発表を明日出します」と受けたのだった。