ギリシャ神話の「ステュクス川」は、日本でいう「三途の川」。絵画で描かれている魂は、天国と地獄、どちらへ連れてゆかれるのか…
長きにわたって人々に鑑賞されてきた西洋の名画には、薔薇やリンゴなど、よく描かれるシンボルがあります。このようなシンボルについて、ベストセラー『怖い絵』シリーズの作者であるドイツ文学者の中野京子さんによると「ちょっとした知識があれば、隠された画家からのメッセージを探りあてることができる」とのこと。そこで今回は、中野さんの新著『カラー版-西洋絵画のお約束-謎を解く50のキーワード』から、西洋絵画をより深く読み解く手がかりを一部ご紹介します。 【絵画】天国と地獄、どちらへ連れてゆかれるのか… ヨアヒム・パティニール『ステュクス川を渡るカロンのいる風景』 * * * * * * * ◆川 川のシンボル性はわかりやすい。 その形から「蛇」ないし「竜」、透明さから「清めの場」、二者を分かつことから「境界線」、そして常に一定の方向へ流れゆくので「時」や「人生」そのものの比喩とされる。 夢占いで悠々たる大河が出てくれば、その人の自信と幸運を示すという解釈があるが、納得しやすいだろう。 また西洋貴族の紋章に川(たいていは3本の波線で表される)が描かれている場合、先祖が主君のため真っ先に川越えをして武勲を立てたと考えられている。 宗教画における重要なシーンの一つは、イエスの洗礼。 名だたる画家たちによるそれは、ヨルダン川で洗礼者ヨハネがイエスの頭部に水をかけ、罪を洗い清めて神の子としての新たな生命を与える儀式の図だ。
◆架空の川 ヨルダン川は実在の川だが、民衆の豊かな想像力が産み出した伝説や神話には、さまざまな架空の川が登場する。 日本では仏教由来の「三途の川」なるものが信じられた。 この世とあの世の境目にあるという三途の川は、死後7日目の亡者(もうじゃ)が渡るもので、渡り方に3種ある。 善人は美しい橋を、罪の軽い者は浅瀬を、重罪人は深間を半ば溺れつつ渡らねばならない。
◆ギリシャ神話における三途の川 ギリシャ神話におけるステュクス川が、いわばこの三途の川にあたる。 ただしステュクスの意味は「憎悪」だ。 この憎悪の大河は地下の冥界を七巻きして流れ、生者の世界と死者の世界を分かっている。 支流は4本あり、それぞれプレゲトーン(火の川)、レーテー(忘却の川)、アケローン(苦悩の川)、コーキュートス(悲嘆の川)という。 また三途の川は歩いて渡るが、ステュクス川は船で行く。 つまり死者の魂は、冥界の老渡し守カロンが漕ぐ船に乗って運ばれるのだ。
◆ステュクス川を渡る風景 16世紀前半のフランドル画家ヨアヒム・パティニールが『ステュクス川を渡るカロンのいる風景』を描いている。 ここで巨大なカロンが乗せている亡者は1人だけで、両岸は画面むかって左が天国、右は地獄になっている。 左に連れてゆかれた善なる魂は、天使といっしょに豊かな森を散策しているが、右では地獄の炎に焼かれている。 果たしてこの魂はどちらへ連れてゆかれるのだろう。 舳先(へさき)は地獄の門へと傾いているような気が……。 ※本稿は、『カラー版-西洋絵画のお約束-謎を解く50のキーワード』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
中野京子