「ヌード以上の衝撃」水沢アキが語る「篠山紀信」との撮影
「私はね、雑誌、週刊誌ってものをものすごい馬鹿にしてたんですよ。これが本当に週刊誌のグラビアっていうものを変えた。そこからなんですよ。そこで僕の考えている新しい表現のヌードやエロスをやる場を与えてくれた」 【写真】1975年、”激写”でセンセーショナルな話題を呼んだ水沢アキさん かつてインタビューでこう語っていたのは、2024年1月4日、天国に旅立った篠山紀信さん。1961年大学3年生のときに広告賞を受賞してプロカメラマンの道を歩みはじめ、1973年からフリーになって60年近くも第一線で活躍し続けていた。存命なら84歳の誕生日を迎えるはずだった2024年12月3日に「篠山紀信先生を偲ぶ会」がホテルオークラ東京にて開催された。 アーティストやクリエイターたちにも篠山さんとその作品が愛され続けた理由はどこにあるのか。「篠山紀信先生を偲ぶ会」で篠山さんと親交の深かった方々が「篠山さんとのとっておきのエピソード」を語ったその全文を掲載する前編では、17歳のころから30年親交のあった市川團十郎さんと、20代のころからアーティストの仲間として深く付き合いのあったコシノジュンコさんのスピーチ全文をお届けした。 後編は、篠山さんが「最初は馬鹿にしていた」と語りながら、新しいエンターテインメントの文化を生み出した現場にいた水沢アキさんのスピーチをお送りする。
週刊誌でエンターテインメントの新しい表現が生まれた
スピーチの最後となったのは、水沢アキさん。篠山さんの大人気連載「激写」シリーズに1975年に初登場してグラビア界を席巻、2020年には1975年から45年の軌跡をまとめた写真集も刊行している。 篠山さんはかつてのインタビューで冒頭の言葉に続き、このように語っていた。 「私はね、雑誌、週刊誌ってものをものすごい馬鹿にしてたんですよ。これが本当に週刊誌のグラビアっていうものを変えた。そこからなんですよ。僕の考えている新しい表現のヌードやエロスをやる場を与えてくれた。そこから『週刊プレイボーイ』を続いてやっていくんです。表紙も2年間やったかな。印刷メディアってのがざーーーっと伸びていった。しかも週刊誌メディアね。『週刊文春』『週刊新潮』だってそのころですからね。『週刊ポスト』『週刊現代』が出たのもその頃ですからね。 ぼくはそれから、『GORO』という雑誌で、あれは隔週刊誌でしたけれど、「激写」というシリーズをはじめるわけですよね。これも時代ですからね。あのように本が、150万とか売れるわけですからね。『少年マガジン』なんて大変なことでしたよ。今までの週刊誌メディアのグラフの写真ではない、かといってアートと言われるカメラ雑誌とか写真集とかにでている写真ではない、なにかミックスされたエンターテインメントの新しい表現が生まれたんですよね」 まさに「エンターテインメントの新しい表現」が生まれた場にいた水沢さんはどのような体験をしたのだろう。 〈水沢アキさんのスピーチ全文〉 こんにちは、水沢アキです。私が先生と初めてお会いしたのは今から50年前。私が19歳の時でした。まずグアムで『GORO』の激写の写真。まだ『GORO』が、創刊号の次の号ぐらいでした。そこで前日に激食会というのがありまして、その時中華だったんですけど、食べきれないほど並び、「この食事を全部完食できた人が先生が気に入る方」っていうのをなんとなく聞いてたんですが、次の日おなか出るのが嫌だし水着だからってお断りしたら、「いやいや、だめだよ。大丈夫。上に手あげて息すればいいんだから」って言われて、調子に乗ってほとんど完食して、その食べっぷりで気に入っていただきました。