ガマで救われた命 「鉄の暴風」野戦病院と化す 壕の実相・沖縄戦79年(上)
手にした懐中電灯の明かりを消すと、漆黒の世界が支配した。沖縄本島南部にある「糸数アブチラガマ」(沖縄県南城市)。知念優(まさる)さん(82)=南風原(はえばる)町=は祖母、母と3人でこの天然の壕(ごう)に身を寄せた。当時わずか3歳だったが、「あの暗闇は思い出したくない」と語る。 【写真】懐中電灯に照らし出される糸数アブチラガマの内部 南城市の前身、玉城村(たまぐすくそん)の調査によると、アブチラガマは石灰岩で形成され、全長約270メートルに及ぶ。奥には広い空間もあり、旧日本軍が米軍の上陸に備え、昭和20年2月から地下陣地を築いた。沖縄陸軍病院の分室として治療室や2階建ての病棟を建設。井戸やかまど、兵器庫も備えていた。 約200人の住民がガマに身を寄せていたが、夜陰にまぎれて自宅に戻り、食事をつくった。知念さんの祖母は、自宅に戻った際、砲弾の破片に当たって片腕を失った。破傷風にかかり、ガマの中で息を引き取った。 昭和20年4月1日、米軍が沖縄本島への上陸を開始。空襲や艦砲射撃など猛攻撃を加え、「鉄の暴風」が吹き荒れた。 5月になると、看護要員として動員された女学生「ひめゆり学徒隊」の14人や軍医が糸数アブチラガマに派遣され、負傷した兵士約600人が次々と搬送されるようになり、ガマは野戦病院と化した。 ■麻酔なしの手術 当初は発電のための発動機が持ち込まれたが、2日後には撤去され、ランプやロウソクの明かりを頼りに麻酔なしの手術をしなければならなかった。悪臭が漂う壕内。傷口は化膿し、破傷風や脳症を患う人が増え続けた。こうした患者は光のない最奥部に隔離され、誰にもみとられることなく、最期を迎えたといわれている。 5月25日、米軍の進駐に伴い撤退命令が下り、ひめゆり学徒隊は南部へ移動。歩けない重傷の負傷兵は置き去りにされた。ガマを去り、一緒に避難する住民も相次いだ。だが知念さんの母は「どうせ死ぬならこっちで死にたい」とガマに残った。 知念さんはガマから米兵の姿が見えたのを鮮明に覚えている。息を殺してひそみ、「真っ暗闇の中で爆弾の音におびえながら過ごした」という。食事は1日1回。食べ物はイモくらいだった。