ガマで救われた命 「鉄の暴風」野戦病院と化す 壕の実相・沖縄戦79年(上)
戦況は日増しに悪化。6月8日には発煙弾の黄リン弾を投げ込まれ、住民がやけどを負った。2日後にはガソリンの入ったドラム缶に火がつけられ、投下されている。
ガマの湿気で引火を免れても「石油の臭いでせきが止まらなかった」という。手ぬぐいを井戸の水でぬらし、口や鼻にあて呼吸するのがやっと。体力のない重傷の患者十数人は、強烈なガソリンの臭いに苦しみながら亡くなったとされる。
■県民4人に1人犠牲
第32軍司令官の牛島満中将が自決し、組織的戦闘は6月23日に終結した。日米あわせて20万人以上が戦死し県民の4人に1人が犠牲になった。
アブチラガマでは、住民約50人と負傷兵数人が命をつなぐことができた。終戦を知らない住民や負傷兵が、米軍の投降勧告に従ってガマを出たのは8月22日だった。
「兵隊の言うことをまじめに聞いて、南へ逃げていった人の多くが帰ってこなかった」
知念さんは、毎年6月23日の慰霊の日が近づくと、ガマでの日々を思い出す。「戦争は二度としてはいけない」。何年たとうが、いささかも揺るがぬ誓いだ。(大竹直樹)
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沖縄戦が終結して79年となる23日、沖縄は亡くなった人々を悼む「慰霊の日」を迎える。沖縄本島には方言で「ガマ」と呼ばれる自然壕が点在している。多くの住民が避難生活を送った壕から沖縄戦の実相を見つめる。