大阪では、今も「秀吉がつくった下水道」を利用! 中央区の「太閤下水」
現在も利用される太閤(背割)下水は秀吉によって造られた 天正11年(1583)、羽柴(豊臣)秀吉は大坂城(大阪市中央区)を淀川・大和川のデルタ地帯に築城し、同時に大坂城下の整備を進めた。秀吉は道路整備を行うとともに、町家から排出される下水を排水する設備(下水溝)を造ったといわれている。都市計画の一環だった。 下水路の幅は3~4尺(約90~120cm)が標準で、1~2間(180~360cm)という広いものもあった。下水路の両サイドは石垣でできており、下水路に挟まれた40間(約72m)四方の区画が町割りの基準となったのである。 この下水路は秀吉によって造られたので「太閤下水(たいこうげすい)」といわれているが、「背割下水(せわりげすい)」とも称されてきた。「太閤下水」「背割下水」の名称が使われ出したのは、昭和40年(1965~74)代頃からであるといわれている。「背割下水」が「背割」と称する理由は、町が下水道を挟み背中合わせ(背割・町境)になっているからだという。 「背割下水」は町境に造られた下水設備であるが、「太閤下水」は背割(町境)にあるものだけではない。実は、それら下水道が秀吉の時代まで遡るのか否かについては、大きな問題となっている。 発掘調査などの結果、慶長3年(1598)に船場(大阪市中央区)で町割りが行われた際、「背割下水」が築かれた可能性は高いと指摘された。 一方、上町(大阪市中央区)では秀吉の時代に下水道が造られた可能性は高いものの、今も残る「背割下水」は江戸時代に築かれたと想定されている。 現在、大阪市中央区和泉町1丁目には、「背割下水」の見学施設がある。常時、窓越しに見学が可能なので、ぜひ行ってみてはいかがだろうか?
渡邊 大門