「ラモスさんに声をかけられ障がい者とプレー」北澤豪 中学時代から始まった支援の眼差し「墜落事故をきっかけに」
── 少年時代から目指すものが明確だったのですね。 北澤さん:自分がうまくなりたいから練習するし、そのためには自己管理を徹底する。読売サッカークラブでは頑張ることがすべてとか、「言われたからやる」考え方をする人がいませんでした。僕も中学時代から、コーチや監督に「こういうことがやりたいんです」と、どんどん主張していましたね。 ── ただ、当時は努力と根性が中心のスポ根時代。部活動では監督やコーチ、先輩ですら絶対的な存在でした。読売の自由なカルチャーとはだいぶ違ったと思いますが、学校では浮かなかったですか?
北澤さん:高校では、サッカー部に入ったのですが、読売のカルチャーに染まりきっていたので、めちゃくちゃ浮いてましたね。先輩を「くん」呼びしてボコボコにされたことも(笑)。最初はチームの雰囲気にもなじめなかったけれど、「もっと自由に楽しさを感じながらサッカーと向き合うべき」という考え方を監督も徐々に理解してくれ、チームにサッカーを楽しむ雰囲気が生まれ出して、学校創設以来初の全国選手権にも出場できました。そういう意味では、チームにも貢献できたのではないかなと思っています。
■墜落事故がきっかけ「途上国のサッカーに思いを馳せ」 ── その後、ヴェルディ川崎で三浦知良選手やラモス瑠偉選手らとともに黄金期代を支えるスター選手として、Jリーグを盛り上げ、日本代表としても活躍されました。一方で、現役時代からサッカーを通じた途上国支援にも積極的に取り組み、引退後はJICA(国際協力機構)のオフィシャルサポーターとしても活動されています。途上国への支援は、もともと個人で始めたものだそうですね。
北澤さん:1993年にザンビアの代表選手らを乗せた航空機が墜落する事故がありました。それまで強豪チームだったのに、主力選手を亡くしてチームが一気に弱体化し、サッカーの火が消えてしまった。それってすごく悲しいじゃないですか。さらに、国の平均寿命が50歳にも満たないと知り、心が痛みました。サッカーを通じて自分に何かできないだろうかと、個人的にザンビアを訪れたのが支援活動の始まりです。 そこから、カンボジアをはじめアフリカなど、80か国以上の国へ行き、サッカーボールを贈って子どもたちにサッカーを教えたり、グラウンドや学校を作るためのサポートをしたりと様々な活動をしてきました。世界の3分の2は途上国で、いまだスポーツを楽しむことすらできない人もたくさんいます。誰もが平等にスポーツを楽しめるような環境づくりに貢献したい。そんな思いがありますね。